賀名生
あのう
奈良県南西部,五條市西部の旧村域。丹生川中流域にある。 1889年村制施行。 1959年宗檜村,白銀村と合体して西吉野村となり,2005年五條市に編入された。南北朝時代,南朝の後村上天皇の皇居が正平3=貞和4 (1348) 年から正平7=文和1 (1352) 年2月までと同年6月から正平9=文和3年 10月まで置かれた。後亀山天皇の皇居もあったというが不明。初め「穴生」と書いたが,京都回復の念願から賀名生と改名したという。ウメの名所賀名生梅林がある。
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賀名生
あのう
奈良県中西部、五條(ごじょう)市西吉野町地区の北西部にある地域。吉野川支流の丹生(にう)川中流域の谷間にある。古くは穴生、穴太、阿那宇、加名生などと書かれた。南朝の後醍醐(ごだいご)天皇、後村上(ごむらかみ)天皇の行宮(あんぐう)が置かれた地で、宮(黒木御所)跡がある。また、和田には北畠親房(きたばたけちかふさ)の墓がある。観梅の名所として知られ、約2万本のウメの木がある。
[菊地一郎]
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賀名生
あのう
奈良県吉野郡西吉野村にある南朝の皇居の地
1348年以来後村上天皇が北朝軍の攻撃を避けて皇居を置いた。初め「穴生」と書いたが,'52年後村上天皇が京都回復の願いがかなうことを念じて賀名生と命名したといわれる。
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あのう【賀名生】
現在は奈良県吉野郡西吉野村。丹生川沿いの谷。古くは穴生,穴太,阿那宇,加名生とも書かれた。《吉水神社文書》の建武1年(1334)2月付坊領証文紛失状に〈宇智郡西穴生荘〉と荘園名で見えるほか,この時期の幾つかの史料に所見があるが,とくに南北朝の抗争に関係して,賀名生が南朝の最重要拠点となったことから,その名がこの時期の史料に頻出するようになる。たとえば《園太暦》の文和1年(1352)2月26日条に〈伝聞,今上皇帝令出穴太此間改名於賀名生宸居,令赴住吉給〉とあり,今上皇帝(後村上天皇)がこの時期以前,賀名生に在住していたことがわかる。
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