土室村(読み)つちむろむら

日本歴史地名大系 「土室村」の解説

土室村
つちむろむら

[現在地名]川北町土室

壱ッ屋ひとつや村の東、山田先出やまだせんでん村の北、手取川下流北岸に立地。古くは古屋敷ふるやしきの地に集落があり、土室三千石とか土室千軒とよばれるほどに栄えたが、手取川南遷の影響で上・下に分立した。分立の時期は室町時代中期前半と推定されている(川北村史)。現在は垣内は三ヵ所あり、中央を草深くさぶか(上土室)、西部を土室(下土室)、東部を新村しんむらと称する。

応永五年(一三九八)八月一五日の明峰十二門派連署状案(「永光寺中興雑記」永光寺文書)に「賀州能美郡土室永福寺無漏素崇 現住至玉判」とあり、瑩山派曹洞教団の明峰素哲門下無漏開基の永福ようふく寺が所在し、住持は至玉であった。長禄二年(一四五八)京都天龍寺塔頭三秀さんしゆう院領上土室を上村秀慶が二三二貫文で永代買得したが、槻橋兵庫が押領した(政所賦銘引付)。槻橋兵庫は文明六年(一四七四)一二月二四日、富樫政親より「能美郡上土室」ほかの知行を安堵されている(「富樫政親書下状」北村文書)。同八年一二月二七日秀慶は幕府に訴え、翌九年七月返付が命ぜられている(政所賦銘引付)

土室村
つちむろむら

[現在地名]成田市土室

小泉こいずみ村の北に位置し、北は尾羽根おばね川を挟み名古屋なごや(現下総町)。地名の由来について、中世の助崎すけさき(現下総町)城主大須賀胤輝が禅法を勤修する母と夫人のために室を設け、母のほうを大室、夫人のほうを少室と名付け、のち村民が少の文字を嫌い土に改めたとする伝承や、平将門が当地を通ったとき人々が岩穴に居住するのを見て穴塚あなづか村と名付け、のち土室村に改めたとする伝承などがある(印旛郡誌)

天正一九年(一五九一)一一月、徳川家康が当地の祥鳳しようほう院に出した朱印状(祥鳳院文書)葛飾かつしか郡土室郷とみえる。

土室村
はむろむら

[現在地名]高槻市土室町・上土室かみはむろ一―五丁目・阿武野あぶの一丁目・氷室ひむろ町三丁目・奈佐原なさはら二丁目・土室

氷室村の西、富田とんだ台地上のあぶ(阿武)山南麓に位置し、南は五社ごしや井路によって島上しまかみ郡と境する。「日本書紀」欽明天皇二三年一一月条によると、この年新羅が日本府のある任那を滅ぼしたが、たまたま日本に来ていた新羅の使人が帰国を奉請しては処刑されると思い残留した。同書に「今の摂津国の三島郡の埴盧はにいほの新羅人之先祖也」とあり、「埴盧」は当地に比定される。この氏族は土器製作の技術を職掌したと思われ、新池しんいけ窯跡との関係が注目される。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に「ハムロ村」とみえ、高二三六石余。

土室村
つちむろむら

[現在地名]高根沢町飯室いいむろ

亀梨かめなし村の北、井沼いぬま川左岸に位置し、中央を市の堀いちのほり用水が南流する。安政元年(一八五四)飯室村と改称した(文久三年「真岡代官引継申送書」大塚彦一文書)。近世は初め宇都宮藩領。慶安郷帳では高二一〇石余、田方一七五石余・畑方三五石余。元禄郷帳の高二八六石余。嘉永四年(一八五一)上知され幕府領となり幕末に至る。天保年間(一八三〇―四四)の家数一一(改革組合村)。奥州街道氏家うじいえ宿の助郷勤高二四三石余(往還雑記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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