土肥原‐秦徳純協定(読み)どいはらしんとくじゅんきょうてい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「土肥原‐秦徳純協定」の意味・わかりやすい解説

土肥原‐秦徳純協定
どいはらしんとくじゅんきょうてい

1935年(昭和10)6月張北(ちょうほく)および熱河(ねっか)省西部で生じた日中間の紛争口実として、同月27日奉天(ほうてん)特務機関長土肥原賢二(けんじ)が察哈爾(チャハル)省主席代理秦徳純との間に結んだ協定。事件の責任者の免職、国民党諸機関の察哈爾省からの撤退、同省内長城付近からの宋哲元(そうてつげん)軍の撤退、日本人顧問の傭聘(ようへい)などが取り決められた。同月10日の「梅津(うめづ)‐何応欽(かおうきん)協定」とともに、華北分離工作の重大な一歩となった。

[安井三吉]

『秦郁彦著『日中戦争史』(1972・河出書房新社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土肥原‐秦徳純協定」の意味・わかりやすい解説

土肥原=秦徳純協定
どひはら=しんとくじゅんきょうてい

1935年6月 27日日本軍特務機関長土肥原賢二と中国国民政府の察哈爾 (チャハル) 省主席代理秦徳純の間で取りかわされた協定。6月5日多倫から張家口に向かっていた関東軍特務機関員数名は,途中張北で所定の通過査証を所持していなかったため1日間,宋哲元の軍によって監禁された (第2次張北事件) 。この事件を口実として日本軍は,梅津=何応欽協定に引続き,6月 23日国民党の察哈爾省撤退,長城線以北からの宋軍の撤退などを要求した。 27日秦徳純はこの要求に対し,(1) 張北事件に関し遺憾の意を表し責任者を免職する,(2) 日中国交に不利な影響を及ぼす機関の察哈爾省からの撤退,(3) 日本側の察哈爾省内における正当な行為の尊重,(4) 満州国国境付近からの宋軍の撤退,(5) 以上の撒退を6月 23日から2週間以内に完了するなどを回答し協定は成立した。これによって日本軍は満州から華北への南下を本格的に開始し,大陸全土への進出を公然と進めるようになった。

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世界大百科事典(旧版)内の土肥原‐秦徳純協定の言及

【華北工作】より

…国民政府による中国統一を嫌う日本陸軍の支那駐屯軍は,35年6月には排日運動を理由に梅津・何応欽協定を強要し,国民党部,中央軍と東北系軍隊を河北省から撤退させた。察哈爾省でも関東軍が同様の処置をとらせた(土肥原・秦徳純協定)。中国は外交交渉を求めたが,広田弘毅外相は停戦協定にもとづく軍事行動だとして応ぜず,軍部の二重外交を是認した。…

【察哈爾事件】より

…4名は多倫から張家口へ行く途中に,張北県北城門を通過する際,通過護照を携帯していなかったため,城内宋軍132師司令部に連行され,護照携行を条件に宋の指示で釈放された。これは日本の華北工作に対する抗日運動のあらわれであったが,軍部はこの事件を口実に高圧的に出て,6月27日土肥原・秦徳純協定(張北事件に対する陳謝と責任者の免職,宋軍の撤退,察哈爾省内での正当な行為の尊重など)を結ばせた。この結果,中国の抗日救国運動は広がり,日中戦争へとつきすすんだ。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」