梅津‐何応欽協定(読み)うめづかおうきんきょうてい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「梅津‐何応欽協定」の意味・わかりやすい解説

梅津‐何応欽協定
うめづかおうきんきょうてい

1935年(昭和10)6月、支那(しな)駐屯軍司令官梅津美治郎(よしじろう)と中国軍事委員会北平分会長何応欽(かおうきん/ホーインチン)との間に結ばれた協定。日本軍は、東北義勇軍孫永勤(そんえいきん)軍の塘沽(タンクー)(停戦)協定区域と熱河(ねっか)での活動、および天津(てんしん)日本租界での親日派中国人暗殺事件を口実華北分離の推進を図り、5月29日から武力を背景に強硬な交渉を推し進めた。その結果6月10日何応欽は日本の全要求を認め、(1)河北省内国民党部の撤退、(2)第五一軍(東北軍)の保定以南への移駐、(3)中央軍2個師の河北省外への移駐、(4)全国への排日禁止の命令、を口頭で回答した。日本側はこれを梅津‐何応欽協定とよんだのである。この協定は土肥原(どいはら)‐秦徳純(しんとくじゅん)協定とともに華北分離工作の出発点となった。

[石島紀之]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「梅津‐何応欽協定」の意味・わかりやすい解説

梅津=何応欽協定
うめづ=かおうきんきょうてい
He-Umezu Agreement

1935年当時の支那駐屯軍司令官梅津美治郎と北平 (現北京) 軍事分会主任何応欽との間で結ばれた協定。同年6月 10日何応欽の口頭回答,同7月6日の文書による回答によって成立した。このとき日本は,満州事変以後の華北進出をさらに推し進めるため,中国の東北義勇軍による「停戦協定違反」や,親日派ジャーナリストの暗殺を口実とし,武力で中国を脅迫したが,時の国民政府は,抗日よりもむしろ長征中の共産党軍殲滅に力を注いでいたため,これに屈し,中国国民党党部およびテロ工作の秘密組織藍衣社を華北から撤退させ,河北省政府主席于学忠を罷免した。同時に邦交敦睦令を公布して排日運動を取締った。 (→華北5省自治運動 )  

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百科事典マイペディア 「梅津‐何応欽協定」の意味・わかりやすい解説

梅津・何応欽協定【うめづかおうきんきょうてい】

1935年6月華北駐屯軍司令官梅津美治郎〔1882-1949〕と中国国民政府軍事委員会北平(ペイピン)分会代理委員長の何応欽との間の協定。河北省内中国軍の撤退,国民党機関の閉鎖,排日活動禁止の3項を中国に押しつけ,日本の華北支配は強まった。

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世界大百科事典(旧版)内の梅津‐何応欽協定の言及

【梅津美治郎】より

…第1次世界大戦直前のドイツ,大戦中のデンマーク,スイスなどに参謀本部部員として駐在。1935年支那駐屯軍司令官として日本の華北進出のてことなった梅津・何応欽協定を締結,翌36年の二・二六事件直後には陸軍次官に就任して粛軍と軍部の政治的進出を推し進めた。その後,第1軍司令官,関東軍総司令官などを経て,40年大将,44年に参謀総長となり,敗戦に伴い全権の一人として降伏文書に調印した。…

【何応欽】より

…中国国民党の知日派軍人の一人。貴州省出身。日本陸軍士官学校卒業。留学中に中国同盟会に加入し辛亥革命に参加した。国民政府委員,国民革命軍総司令部参謀長,国民党中央執行委員,軍政部長,参謀総長などを歴任。1935年華北の反日運動を押さえ,華北支配を固めようとする日本の意図に屈して妥協を図り,梅津(美治郎)=何応欽協定を締結した。また蔣介石の側近として反共工作を指導。44年陸軍総司令,48年国防部長,49年行政院長。…

【華北工作】より

… 1933年5月の塘沽(タンクー)停戦協定で日本軍は河北省北東部に非武装地帯を作らせ監視権を認めさせたが,これが華北工作の足がかりとなった。国民政府による中国統一を嫌う日本陸軍の支那駐屯軍は,35年6月には排日運動を理由に梅津・何応欽協定を強要し,国民党部,中央軍と東北系軍隊を河北省から撤退させた。察哈爾省でも関東軍が同様の処置をとらせた(土肥原・秦徳純協定)。…

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