中国、北宋(ほくそう)の初め、四川(しせん)に起こった王小波・李順(りじゅん)の乱と、南宋の初め、湖南に起こった鍾相(しょうしょう)・楊么(ようよう)の乱をさす。ともに「均貧富」をスローガンとしたのでこの呼称があるが、両者の間に直接のつながりはない。前者は、宋朝が四川の茶を専売化しようとしたことに端を発し、993年に蜀(しょく)州の茶商、王小波らが富豪や宋朝官僚の打倒に立ち上がった当初は、数百人の小規模な暴動にすぎなかった。やがて後蜀孟氏(こうしょくもうし)の遺孤と称する李順が率いるようになると、宋初以来の四川統治に不満を抱く商人や豪民を含む数十万の反乱軍に発展し、翌年には成都を占領、李順は大蜀王と号して自立した。しかし、優勢な官軍はまもなく成都を奪回し、李順は行方不明となり、部下の張余らが揚子江(ようすこう)支流沿いにゲリラ戦を展開したが、995年夏に鎮定された。
後者は、金(きん)軍の侵入に苦しむ洞庭湖周辺の農民が、土豪の鍾相に率いられて自立した反乱である。北宋末からこの地域にはマニ教の影響を受け、相互扶助を行う均産教が広まっており、鍾相はその教主であった。鍾相は信者らを忠義軍に組織して金軍に抵抗したが、南宋軍の統制にも従わず、1130年鼎(てい)州に大楚(たいそ)国を建て、富豪のほか僧侶(そうりょ)、道士、儒者らを敵として「均貧富」「等貴賤(きせん)」を実行した。鍾相の死後、楊么は洞庭湖中の水寨(すいさい)に拠(よ)り、民兵20万と優れた火器とで官軍を悩ませたが、35年、岳飛(がくひ)により鎮定された。
[島居一康]
中国,宋代の民衆反乱。四川一帯と湖南北部とに起こった。965年(乾徳3)後蜀を滅ぼした宋朝は,四川の豊かな経済力を吸収すべく,この地方に種々の収奪を行った。絹織物や茶など特産物の売買を統制したが,993年(淳化4)茶商の王小波(?-994)が〈均貧富〉と号して蜂起し,李順が後継者となって成都に進出して四川全域を影響下に置いた。やがて優勢な宋朝軍の前に995年(至道1),時の指導者張余が殺されて,反乱は終息した。この反乱は王小波・李順の乱ともいわれる。
また南宋初期に義勇軍を組織し金に抵抗した土豪の鍾相は,マニ教の影響をうけた均産思想をもつ土俗宗教の教主でもあったが,宋朝の疑惑をうけて〈等貴賤,均貧富〉と号して蜂起した(1130)。官僚や富豪のほか儒者,道士,僧侶なども殺害し,優れた武器と水軍の力で洞庭湖一帯を広く配下に入れた。鍾相の没後,楊太(楊么(ようよう))が実質的な後継者になったが,1135年(紹興5),南宋初期の軍閥首領の一人岳飛によって鎮定された。この乱も鍾相・楊么の乱ともいわれる。
執筆者:衣川 強
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