日本歴史地名大系 「堺南庄」の解説
堺南庄
さかいみなみのしよう
古代律令国家のもとでの地方行政区画でいえば和泉国大鳥郡子)からその母であった准后藤原貞子へ、さらに後深草天皇を経て永福門院(伏見天皇中宮藤原
子)へと持明院統に継承され、また領家職は四天王寺(現天王寺区)遍照光院に相伝されているが、これは堺南庄のことと考えられている。正嘉二年(一二五八)の和泉国御家人着到注文(和田文書)にみえる鎌倉幕府御家人塩穴中務丞や文永九年(一二七二)一〇月六日の和泉御家人大番役支配状案(同文書)に登場する御家人塩穴左衛門尉は堺南庄辺りに本拠を構えるものであろう。開口神社の神宮寺
南北朝内乱の初期、南北両朝軍の堺争奪をめぐる動きは活発である。建武四年(一三三七)六月一一日の足利尊氏御教書(春日大社文書)によれば、堺浦の魚貝商人が大和吉野にあった南朝に内応したとして北朝足利方が魚貝商人の活動を停止させたため、奈良春日社への供御まで闕怠するに至ったとして春日社神人から訴えが出され、将軍家は和泉守護細川顕氏にその実状調査を命じている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報