塚越村(読み)つかごしむら

日本歴史地名大系 「塚越村」の解説

塚越村
つかごしむら

[現在地名]坂戸市塚越・さかえ千代田ちよだ五丁目

石井いしい村の南にあり、北部を飯盛いいもり川が東流する。南は高麗こま戸宮とみや村、南東から北西へ江戸秩父道が通る。古くは塚腰といい、奥州出陣の途中源義家が当地に陣して西方にあった古塚に腰を掛けたことから起こった地名だと伝える(風土記稿)。この古塚は現在義家よしいえ塚とよばれる直径八メートル、高さ一・四メートルの円墳で、墳頂に源義家を祀る塚越神社がある。天文二四年(一五五五)四月一五日の紀年のある坂戸薬師堂の薬師如来立像の胎内首裏墨書銘に「武州入西郡勝郷之内塚越村小河新右衛門尉法名善了旦那也」とある。小田原衆所領役帳には、江戸衆伊丹右衛門太夫の所領として「入西勝之内 大宮分藤井共」一九貫一三二文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。

塚越村
つかごしむら

[現在地名]幸区塚越一―四丁目

北境をりよう用水が流れ、東は古川ふるかわ村・戸手とで村、西は小倉おぐら村、南は矢向やこう(現横浜市鶴見区)、北は下平間しもひらま村に接する。中郷なかのごうを中心とし、かみしもふくろなどの小字からなる。田園簿に村名がみえる。近世は初め幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世領、同九年六月久世氏が下総関宿藩主に封ぜられたため同藩領となった。

塚越村
つかごしむら

[現在地名]立山町塚越

常願寺川中流右岸、扇状地末端の微高地上に立地。南は上鉾木かみほこのき村、西は浅生あそう村、北は稲荷いなり(現舟橋村)。「越中志徴」の引く郷村名義抄によると、村名は昔大きな塚があり、その際に村立てしたことに由来するという。寛永一七年(一六四〇)の新川郡内知行所付帳(神尾家文書)に村名がみえ、当村の三二三石余(免四ツ三厘)など四千一〇二石余が神尾直次以下五人に与えられている。正保郷帳では高三一五石余、田方二〇町余・畑方一町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高三〇七石、免四ツ五歩、小物成は野役一九匁、ほかに寛文八年の検地引高二九石、享保六年(一七二一)の検地引高七六石、同八年・延享元年(一七四四)の手上高は都合七六石(三箇国高物成帳)

塚越村
つかごしむら

[現在地名]蕨市塚越一―七丁目・中央ちゆうおう一丁目・南町みなみちよう一―三丁目

蕨宿の東にあり、北はしば(現川口市)。元和七年(一六二一)一二月の年貢請取状(岡田家文書)には上・下の蕨村とともに塚越村がみえ、年貢米二〇四俵余、同九年の年貢請取状(同文書)にも塚越新田として、年貢米二六一俵余・永三貫三一八文とみえる。おそらく上・下の蕨村の住民らによって開拓され、元和八年から九年にかけて分村したものと思われる。

塚越村
つかごしむら

[現在地名]浜松市名塚町なづかちよう

名切なぎり村の東に位置。長上ながのかみ郡に属する。松平忠頼領郷村帳では高六八石余、田二町四反余・畑五町九反余。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳には塚こし村とみえる。正保郷帳では田三八石余・畑六八石余で、名切村分を含んだとみられる。領主の変遷は向宿むこうじゆく村と同じ。

塚越村
つかごしむら

[現在地名]小杉町塚越

黒河くろかわ村の東方に位置する。弘化元年(一八四四)小杉新町の塚越屋清右衛門が開発にあたったのでこの称がある。塚越屋清右衛門は戸破へわり村の肝煎と算用聞並を兼務するなど、豪農であったが開墾に失敗し、訴訟に窮して家産を費やしたと伝える(小杉町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報