吉井村(読み)よしいむら

日本歴史地名大系 「吉井村」の解説

吉井村
よしいむら

[現在地名]吉井町吉井

北境をかぶら川が東流、西部を大沢おおさわ川が北流する。東はいけ村など、北は甘楽かんら岩崎いわざき村、西は塩川しおがわ村などと接する。南部寄りを下仁田しもにた道が東西に抜ける。吉井藩の陣屋町、また継立場として町場を形成し、史料上では吉井町・吉井宿と記される場合が多い。天正一八年(一五九〇)徳川家康入部直後の関東入部知行割(諏訪文書)菅沼定利に上州吉井で二万石が与えられる。明和九年(一七七二)の「多胡旧記」島家蔵)や草分四拾五軒由緒書(同家蔵)などによると、定利は当地に城を築き町方新規を発し、矢田やた村より移した四八軒で町割をなし、飯吉いいよしと称していたのを初め吉飯よしい、のち吉井に改めたという。なお「簑輪軍記」には永禄六年(一五六三)武田信玄箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)攻めの際に落城した小城の一つに「吉井」を記す。

寛永二年(一六二五)吉井・塩河村で三二三石余が長谷川久三郎に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では幕府領と前橋藩領の二給、田方一二三石余・畑方三六六石余。元禄郷帳では幕府領・旗本松平領・同川田領などの六給。その後吉井藩領。幕府領は慶安元年(一六四八)の検地帳(吉井町郷土資料館蔵)によると田二町五反九畝余・畑一〇町九反八畝余・屋敷五筆三反七畝余。文政年間(一八一八―三〇)の組合村々明細帳(群馬大学蔵)には下仁田道の両側に旅籠や茶屋・百姓家が記され、旅籠屋四・茶屋七があり、二・八の六斎市では近在二八村からの絹・太織物などが売買されていた。


吉井村
よしいむら

[現在地名]岡山市吉井

一日市ひといち村の北、南流する吉井川右岸にある。一日市村境を山陽道が通り、同道の吉井川渡河点にあたり、対岸八日市ようかいち(現邑久郡長船町)とを結ぶ渡しは、吉井渡とよばれた。延宝年間(一六七三―八一)に竣工した倉安くらやす川は、当地に築いた水門(吉井水門)で吉井川より取水している。古代・中世には福岡ふくおか庄に属し、嘉応二年(一一七〇)の福岡庄作麦注文案(東寺百合文書、以下断りのない限り同文書)によると吉井村の畠は一二七町一段四〇代一八歩で、同庄二六〇町余の半分を占めている。村内に八町河原や八日市が含まれていた(暦応四年閏四月八日快円請文)。建長元年(一二四九)の吉井村作田内検目録によれば田六四町九段余、一宮・石津いしづ宮・「王□」・常福寺・平安寺の仏神社免、鍛冶成宗・押領使などの人給や川成を除くと作田は五〇町二段余、このうちに預所佃・地頭常荒・定使・下司・田所・公文・惣追捕使・檜物・庄丁・井料・力役などの除田があった。また当村弘行名は一七町一段余であった。なお正嘉元年(一二五七)の畠目録案によれば、当村の畠は石津・吉井・山方・今・居都こづ・富岡・市・下市・福原などの村に、「北村内吉井分」は馬地・山方・富岡・神崎かんざき・居都などにあった。


吉井村
よしいむら

[現在地名]二丈町吉井

福井ふくい村の西に位置する。福井浦の西隣に吉井浦があり、北端はいそ崎。福吉ふくよし(吉井川)が流れ、東西に唐津街道が通る。西の鹿家しかか村との間にたちばな(現立花峠)がある。吉井浦の北西八町にある(葉島とも記す)は周囲一〇町四六間(地理全誌)。南はうき(八〇五・二メートル)十坊とんぼう(五三五・四メートル)を中心とする山地で、両山の間の白木しらき峠を越えて肥前国松浦まつら郡白木村(現佐賀県七山村)に至る。天正一二年(一五八四)三月、肥前の波多信時軍と戦った原田信種の軍勢は深江の宿を経て吉井浜に陣取った(改正原田記)。慶長四年(一五九九)の怡土郡石高帳(二丈町誌)によれば吉井浜も含み高一千六四七石余。正保郷帳では田一千六五九石余・畠二〇一石余。元禄国絵図では高一千八八二石余。


吉井村
よしいむら

[現在地名]関宮町吉井

関宮せきのみや村の南西、八木やぎ川の中流域に位置し、山陰道が通る。中心集落である吉井のほか、関宮村境に下吉井、吉井の南西方に吉井新田、吉井新田のさらに南西方に足坂あしざかの各枝郷がある。吉井新田は中瀬なかぜと通称され、一五世紀後半から中瀬金山が稼働していた。吉井集落の対岸(八木川右岸)には中世の白岩しらいわ城跡がある。応永三三年(一四二六)四月五日付沙弥宗恵の万松庵宛田地寄進状に添えられた坪付注文写(白岩文書)に、吉井名および「かけきよ」「さたのふ」「のりなか」の名の名称が所見する。このうち吉井名は吉井の地名と関係するものと思われる。これらの名は「領家の御年貢・公方反銭等の役」を負担することは宗恵の同日付寄進状(写、同文書)に記されるものの庄園名の明示はないが、八木庄であろう。


吉井村
よしいむら

[現在地名]芳井町吉井

与井よい村の西にあり、北東部を小田おだ川が南東流する。西は天神山てんじんやま村に接し、小田川の天神峡は渓谷美に優れた景勝地として知られ、県指定名勝。文安六年(一四四九)六月二七日の重玄庵知行目録(重玄寺文書)に「井原庄吉井村」とみえ、同目録などによれば天神山にあった重玄ちようげん寺の寺領田一町・畠六反余があった。天正二〇年(一五九二)九月二〇日の大月寺(重玄寺)寺領坪付断簡(同文書)にみえる「をいさき」(追崎)、慶長一四年(一六〇九)の角屋六右衛門替券(同文書)にみえる「はつさき」(初崎)などは現在も地字として確認できる。


吉井村
よしいむら

[現在地名]阿南市吉井町・熊谷町くまだにちよう

明谷あかだに村の北西に位置し、北は那賀なか川を挟んで楠根くすね村。康和五年(一一〇三)八月一六日の大滝寺所領注進(前田文書)に大滝(太龍)寺の所領として吉井とみえる。建治二年(一二七六)三月一五日の太龍寺定書(太龍寺文書)では太龍たいりゆう寺分吉井村の一畝余が川成となっている。文安四年(一四四七)一二月二四日の細川勝元施行状(天龍寺文書)では京都天龍寺領吉井は平島ひらじま(現那賀川町)などとともに段銭・人夫臨時課役・守護役番を免除されている。天文三年(一五三四)京都を追放された足利義冬は「淡州しつきの浦」(現兵庫県津名町)にしばらく逗留した後、細川讃岐守の迎えで平島庄に移り、平島一一ヵ村のほかに吉井など三ヵ村を与えられた(阿波平島家記録)


吉井村
よしいむら

[現在地名]岸和田市吉井町一―四丁目・春木若松はるきわかまつ町・磯上いそのかみ町一丁目

磯上村の東、八木やぎ平野を流下するあまノ川下流域、紀州街道と熊野街道(小栗街道)の中間に位置する。「吾妻鏡」嘉禎三年(一二三七)六月一日条に「矢部禅尼法名禅阿、賜和泉国吉井郷御下文」とみえる吉井郷は、当地に比定される。矢部禅尼は三浦義村の娘で初め北条泰時に嫁したが、離別して三浦一族の佐原盛連の室となり、盛連の譲与によって吉井郷を領し、将軍家から安堵の下文を賜ったのである(→包近名


吉井村
よしいむら

[現在地名]富山町吉沢よしざわ

井野いの村の岩井いわい川を挟んだ南にあり、南は米沢よねざわ村。「安房志」は「安房十一井」の一として「吉沢村大井戸」をあげており、当村名はこれに関係するとみられる。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に米沢村と並記され、合せて高五三八石余、うち田方二九三石余。里見氏給人領。同一一年・一五年の里見家分限帳では「吉井村米沢共」と記され、同じく一括して高付されている。


吉井村
よしいむら

[現在地名]柏崎市吉井・吉井黒川よしいくろかわ

北は曾地そち村、南は矢田やた村、西は田を隔てて下大しもおお新田、東は山で長鳥ながとり村。集落は丘陵縁辺の吉井と東方丘陵に菊尾きくお、さらに東の長鳥村近くに吉井黒川がある。検討を要する史料ではあるが、菊尾の観音堂に宛てた天文一九年(一五五〇)五月一三日の斎藤朝信安堵状および天正一七年(一五八九)二月二日の斎藤景信安堵状(以上小林文書)により、赤田あかだ(現刈羽郡刈羽村)の斎藤朝信・景信の勢力が当地に及んでいたことがわかる。


吉井村
よしいむら

[現在地名]吉川町吉井

南は米山こめやま村に接し、北から西にかけて平等寺びようどうじ川が流れる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「左近治喜左衛門分吉井村 下」とみえ、本納五一石一斗七升三合・縄高四八石九斗六升四合、家六軒・一七人とある。現在吉井には赤坂あかさかの通称があり、同絵図に「宮嶋与八郎分赤坂村 下」とみえ、本納五石五斗・縄高六石九斗八升二合、家一軒・四人とある。正保国絵図に高一二三石余とみえる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高一二九石五斗余で、他に当村ほか三ヵ村合せて「高弐石六斗 小物成」と記される。天和三年郷帳によれば高一八一石一斗余。享保二年(一七一七)糸魚川藩領に属して幕末に至る。


吉井村
よしいむら

[現在地名]豊岡市吉井

大谷おおたに村の北、岩井いわい村の南に位置し、奈佐なさ川が流れる。江戸時代の領主の変遷は栃江とちえ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二八二石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。


吉井村
よしいむら

[現在地名]東条町吉井

安国寺あんこくじの北西、東条川中流の右岸にある。中世には一帯に吉井庄が成立。慶長国絵図に村名が記される。正保郷帳では田方四九九石余・畠方四〇石余、幕府領。以後の領主の変遷は天神てんじん町と同じ。天保郷帳によると高五五四石余。天保四年(一八三三)の加古川筋一揆では当村の酒屋と干鰯商が襲われた(「加古川筋百姓一揆につき風聞注進書」脇坂家文書)


吉井村
よしいむら

[現在地名]大和高田市大字吉井

奥田おくだ村の東に立地する。慶長郷帳では村高三六七・五一石。江戸時代初期、五条二見藩(松倉重政)領、元和二年(一六一六)の松倉氏の転出で幕府領(代官宗岡弥右衛門)となり、同五年郡山藩(松平忠明)領、延宝七年(一六七九)郡山藩主本多忠国の転封で幕府領に編入され明治維新に至った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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