夏井村
なついむら
[現在地名]高郷村夏井
川井村の南、只見川下流左岸に位置し、河沼郡野沢組に属した。西は永野、南は西羽賀村。文安五年(一四四八)、前年の大風で倒壊した塔寺八幡宮(現会津坂下町)の鳥居が再建されたが、この折に「なついの阿弥陀のすき一本」など会津地方の各寺社から建材が提供されている(「塔寺長帳」文安五年条裏書)。地内には永延年間(九八七―九八九)恵日寺(現磐梯町)代官斎藤佐渡守宗顕が住したという代官館、天正年中(一五七三―九二)赤城玄蕃某の居館という夏井館などがある。「新編会津風土記」によると玄蕃は関東の出身で蘆名盛氏に仕え、当地ほか河井・西羽賀・塩坪・池ノ原・漆窪の合せて永一二〇貫文の地を領したという。
夏井村
なついむら
志布志郷帖村の南西、陣岳の南側にあり、有明浦(志布志湾)に面する。村名は、地内に夏盛んに水が湧き冬には枯れる井泉があったことにちなんだものという(三国名勝図会)。東は日向高鍋藩領の日向国那珂郡高松村(現宮崎県串間市)。村の大部分は陣岳から連なる山地やシラス台地に覆われて狭隘な地形をなし、海岸沿いには志布志麓より高松村へと至る道が東西に走っていた。正平一四年(一三五九)一月一一日の伴基栄寄進状写(大慈寺文書)に「救仁院志布志条内夏井」とみえ、益倉村とともに大慈寺に寄進された。志布志から櫛間(現宮崎県串間市)方面へ向かう交通の要衝であり、大慈寺造営のために今川了俊や島津立久が駄口米徴収を認めた志布志関所は当所にあった可能性が高い(永和四年三月一八日「今川了俊書下写」・文明二年九月四日「島津立久書下写」同文書)。
夏井村
なついむら
[現在地名]久慈市夏井町 夏井
早坂村の北西、夏井川の中流域に位置。永正五年(一五〇八)の糠部郡九箇部他馬焼印図(古今要覧稿)に「なつい」とみえる。夏井川と女沢川の合流点の辺りに夏井氏の館跡がある。天正一九年(一五九一)九戸政実の乱では夏井氏は二つに割れており、久膳は九戸方、夏井館主勘解由は南部信直方についた(奥南旧指録)。正保国絵図に村名がみえ、高二四六石余。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳には夏井通村三ヵ村の一として村名がみえ、田一四五石余・畑五二石余。天保五年(一八三四)の南部領高辻帳による〆高は田方四三七石余・畑方一〇四石余。
夏井村
なついむら
[現在地名]黒川村夏井
南西を胎内川が北流し、西は栗木野新田・坪穴村、南は川を挟んで熱田坂村・鼓岡村に接する。建治三年(一二七七)四月二八日の高井道円(時茂)譲状案(中条町役場所蔵文書)に奥山庄内として「夏い」とみえ、道円の孫なかもち(茂長)へ譲られている。同年一一月五日の茂長宛の道円の譲状(三浦和田氏文書)では譲与された八ヵ所の中に当地はなく、茂長分の所領の東堺は「なつゐのしものゐのはなさは」を限ると記される。
夏井村
なついむら
[現在地名]鹿角市八幡平 夏井
鹿角盆地南端部、北流する熊沢川中流左岸に位置し、南西部は広い山地。北は長牛村。現上沢に縄文前期の遺跡がある。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出る。
近世初期の「鹿角郡由来記」に「夏井村 夏井但馬領知 本名阿保なり 館有」と記し、中世後期には開村していた。集落南東部高台に中世館跡があり、連郭状平坦面と八幡神社・空堀などが残る。
夏井村
なついむら
[現在地名]奈留町大串郷 夏井
大串村の東、相之浦の北西岸に臨む。西に早房山と遠命峠、北にヨロ瀬鼻、鵜ノ小島、南東に青木浦があり、対岸に観音崎が延びる。弘安三年(一二八〇)一一月二五日の百姓等連署起請文案(青方文書)に「なついにうたうしやうふつ」が署名している。江戸時代は福江藩領奈留島掛に属する。元和三年(一六一七)のイエズス会管区長徴収のキリシタン連判書付に「五島夏井」とみえ、指導者と考えられる五名が署名している。奈留島村のうちで、正保元年(一六四四)の福江領郷村高帳に夏井村とある。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳に夏井浦とみえ、福江湊から八里の船路であった。
夏井村
なついむら
[現在地名]岩室村夏井
北流する西川左岸にあり、東は川を隔てて原村、南は
穴村(現弥彦村)に接する。慶安三年(一六五〇)までに開発され、元禄郷帳では舟越村枝郷として村名がみえ、高七〇石七斗。旗本牧野氏領で、文久三年(一八六三)の高直し以降三根山藩領。元禄郷帳には当村枝郷の二子島村五九石八斗余がみえ、天保郷帳では当村に含まれている。安永五年(一七七六)には西川沿いに下畑一反六畝余が開発された(「堤外地書上書」和納区有文書)。文化六年(一八〇九)には西の南谷内村近くに広がる、御立野とよばれる耕地一二町四反余が、当村など五ヵ村で正式に分割された(「御立野萱場谷内町反改帳」夏井区有文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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