多気城(読み)たげじょう

百科事典マイペディア 「多気城」の意味・わかりやすい解説

多気城【たげじょう】

霧山(きりやま)城ともいい,伊勢国司北畠顕能が1342年に玉丸城から出て築城したと伝える。城跡は現三重県津市美杉(みすぎ)町多気地区(上多気・下多気)に残り,国指定史跡。標高約600mの山頂にあり,東麓の現北畠神社境内一帯が歴代北畠氏の居館であったという。詰城である多気城と山麓の居館を大手道で結ぶ典型的な中世山城。多気地区は三方山地に囲まれるが,八手俣(はてまた)川を下って一志平野に至り,峠越えで伊勢南部各地や大和・吉野へ通じた。15世紀半ば幕府と和解した北畠氏は多気を本拠に領国経営に取り組み,戦国大名へと成長。居館の周囲には城下町も形成されたと推定される。織田信長の伊勢侵攻に備えた北畠具教は1569年本城を多気城から大河内(おかわち)城(現三重県松阪市)に移す。さらに織田軍は1576年具教を三瀬(みせ)館(現三重県大台町)に討ち,多気城も城代北畠政成以下城兵ことごとく討死して落城した。
→関連項目田丸

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改訂新版 世界大百科事典 「多気城」の意味・わかりやすい解説

多気城 (たけじょう)

中世の伊勢国司北畠氏の本城。現三重県津市の旧美杉村上多気・下多気に城跡が残る。一名霧山(きりやま)城ともいう。1342年(興国3・康永1)伊勢国司初代北畠顕能が玉丸(たまる)城から移って拠城に定めた。以後,伊勢・大和国境付近で交通路を扼しつつ戦国末年に至る。城跡は標高600mの山上に位置し,尾根を削平して南北二郭に分け,土塁・竪堀等の設備を施す。その東麓には北畠氏の居館跡(現,北畠神社境内)が残る。山上の詰の城と山下の館を大手道で結ぶ典型的な中世山城で,国史跡。山下に本格的な城下町があったとされるが(神宮文庫蔵多気城下古図),詳細は不明。1569年(永禄12)織田信長の侵攻に際し北畠氏は多気城を出,総力をあげて大河内(おかわち)城(現,松阪市)にこもって戦ったが敗れ,のち76年(天正4)に族滅する。
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日本の城がわかる事典 「多気城」の解説

たけじょう【多気城】

栃木県宇都宮市にあった山城(やまじろ)。宇都宮城を本城としていた宇都宮氏が危急の際の詰めの城として築いたもので、多気山(標高377m)の全山を城域としていた。山城としては栃木県内では最大の規模を持つ。戦国時代末期の1584年(天正12)、北条氏直が下野国に進出して以降、宇都宮氏の領地はしばしば小田原北条氏の侵攻を受けるようになった。このため、宇都宮氏は常陸国の佐竹氏と同盟して、これに対抗したが、平城(ひらじろ)の宇都宮城では防衛が十分でないと判断され、多気山に要害を築いて、1585年(天正13)には、宇都宮城から多気城へと本城を移した。1597年(慶長2)、宇都宮氏は豊臣秀吉により改易処分となったが、これに伴い多気城は廃城となった。城跡には、多気山の麓を半周していた長大な土塁や空堀の跡のほか、多気山の各所に曲輪(くるわ)、虎口、竪堀、櫓(やぐら)台などの跡が残っている。宇都宮市街中心部から車で約30分。◇多気山城、御殿山城とも呼ばれる。

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世界大百科事典(旧版)内の多気城の言及

【美杉[村]】より

…三重県中央西部,一志郡の村。人口8015(1995)。西は奈良県に接し,村域の9割近くが山林で,県境には俱留尊(くろそ)山,三峰(みうね)山など標高1000m以上の山がそびえる。伊勢湾に注ぐ雲出(くもず)川が中央を北流,北部で八手俣(はてまた)川が合流する。また西部を名張川が北流する。山間にありながら伊勢と大和を結ぶ要路にあたり,南北朝期には伊勢国司北畠氏の居城霧山城(多気(たけ)城)が築かれた。上多気・下多気一帯には城下が形成されていたと考えられ,北畠氏の居館は多気御所と呼ばれ,戦国時代末期に織田信長の侵攻により大河内(おかわち)城(現,松阪市)に移るまで,北畠氏の本拠であった。…

※「多気城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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