たか‐みや【高宮】
[1] 〘名〙
① 高く造営した
宮殿。また、高い所に造営した宮殿。
※
播磨風土記(715頃)賀古「『
此処は浪の響・鳥の声甚譁
(かまびす)し』とのりたまひて、高宮に遷りましき」
※鈴鹿家記‐宝徳元年(1449)四月一〇日「近江国高島郡社家岡出雲高宮十端上る」
[2]
[一] 大和国葛城の
地名。現在の奈良県御所
(ごせ)市森脇、宮戸あたりとも、同市西佐味
(にしさび)あたりともいうが、その地がどこかははっきりしない。
※
古事記(712)下・
歌謡「我が 見が欲し国は 葛城多迦美夜
(タカミヤ) 我家のあたり」
※顕輔集(1155頃)「
あさまだきふりさけみれば
白妙の雪つもれるや高宮の里」
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デジタル大辞泉
「高宮」の意味・読み・例文・類語
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高宮【たかみや】
近江国犬上郡の地名。現在の滋賀県彦根市域で,中山(なかせん)道の宿駅が置かれていた。《和名類聚抄》に記す古代の犬上郡高宮郷の郷名を継承する地で,中世には高宮保・高宮荘が成立している。当時から京都と東国を結ぶ幹道にあたり,《東国紀行》《美濃路紀行》などにみえる。江戸時代の町並は7町16間で,宿内家数835・人数3560人,本陣1軒・脇本陣2軒,問屋場1ヵ所,旅籠23軒で,宿建人馬50人・50疋であった(《宿村大概帳》)。また彦根藩の米札引替所が設置されていた。多賀大社の門前町でもあり,宿内に大鳥居が建つ。1449年に高宮布10反が贈与され,1548年に六角定頼(さだより)が本願寺証如に高宮布10反を贈るなど,中世以来の伝統をもつ麻布は,江戸時代には彦根藩の保護統制のもとで諸国に知られるようになった。時宗寺院の高宮(こうぐう)寺がある。
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高宮 (たかみや)
近江国(滋賀県)犬上郡の中山道の宿駅。高宮川の北岸に位置する。古代の犬上頓宮の地か(《大日本地名辞書》)。中世には高宮城が存在したという。江戸時代,宿駅がおかれ,1843年(天保14)当時,町並み7町16間,人口3560人,家数835軒,本陣1軒・脇本陣1軒,旅籠23軒,問屋場1ヵ所(《宿村大概帳》)。宿内の円照寺には,徳川家康が大坂の陣出陣の際,休息に立ち寄ったという。宿場町であると同時に多賀大社の門前町であった。宿場の中央部に高さ11mの多賀大社の大鳥居が建っている。高宮はまた高宮布の生産・集散地として栄えた。中世以来の伝統をもつ麻布で,江戸時代彦根藩の保護・統制のもとに発展し,高宮布を扱う問屋・小売・行商人が輩出した。1742年(寛保2)以降,彦根藩の米札引替所が置かれていた。明治になり宿駅が廃止された後も商工業が発展した。1912年町制施行,57年彦根市に合併。
執筆者:江竜 喜之
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高宮
たかみや
広島県北部,三次市の西,江川 (ごうがわ) 上流の可愛川 (えのかわ) 南岸にある地区。旧町名。 1956年川根,来原,船佐の3村が合体して町制。 2004年3月甲田町はじめ周辺5町と合併し,安芸高田市となった。大部分が山地や丘陵地で,米,果樹を産し,酪農も行なわれる。中央部東西約 2kmにわたって天然記念物の船佐・山内逆断層帯がある。 JR三江線,国道 375号線,433号線,南部を中国縦貫自動車道が通る。
高宮
たかみや
滋賀県中央部,彦根市中部の地区。旧町名。 1957年彦根市に編入。かつて中山道 (現国道8号線) の宿場町で,高宮麻布の産地として知られた。近江商人の出身地の1つで,現在も商業が盛ん。ゴムの大工場がある。
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