デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大内義長」の解説 大内義長 おおうち-よしなが 1540-1557 戦国時代の武将。天文(てんぶん)9年生まれ。大友義鑑(よしあき)の子。大友宗麟(そうりん)の弟。大内義隆・義尊父子を殺した陶晴賢(すえ-はるかた)にむかえられ,天文21年大内氏の家督をつぐ。24年毛利元就(もとなり)軍と厳島でたたかい敗れる。弘治(こうじ)3年4月3日元就に攻められ長門(ながと)(山口県)長福寺で自刃(じじん)し,大内氏は滅びた。18歳。幼名は塩乙丸。名ははじめ晴英。通称は八郎。【格言など】さそふとて何か恨みん時来ては嵐の外に花もこそ散れ(辞世) 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「大内義長」の解説 大内義長 没年:弘治3.4.18(1557.5.16) 生年:天文9(1540) 戦国時代の武将。幼名八郎,初名晴英。官途は周防介,左京大夫。大友義鑑の子,義鎮の弟。母が大内義隆の姉であったため,天文20(1551)年の義隆の死後,陶晴賢にかつがれて大内氏の家督を嗣ぐ。領国支配の実権は晴賢をはじめとする重臣が握っていた。弘治3(1557)年毛利氏に攻められ長門国長福寺で自殺した。 (佐伯弘次) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
防府市歴史用語集 「大内義長」の解説 大内義長 大内[おおうち]氏最後の当主です。大内義隆[おおうちよしたか]の死後、陶晴賢[すえはるかた]によって、大友宗麟[おおともそうりん]の弟であり、義隆のおいにあたる晴英[はるひで]が大内家にむかえられ、義長と名乗りました。しかし、毛利[もうり]氏に攻めこまれ、下関市長府の長福寺[ちょうふくじ]で自害しました。 出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報 Sponserd by
世界大百科事典(旧版)内の大内義長の言及 【豊前国】より …この戦いは大内方の敗北となり,やがて将軍の仲介で38年両氏の和睦が成立した。その後,豊後守護大友宗麟の弟晴英が大内義隆の養子となり,51年には大内氏を相続し大内義長を名のった。しかし55年(弘治1)に中国地方に毛利元就が興って,57年には大内義長を攻め滅ぼした。… ※「大内義長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」 Sponserd by