出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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大内義長
没年:弘治3.4.18(1557.5.16)
生年:天文9(1540)
戦国時代の武将。幼名八郎,初名晴英。官途は周防介,左京大夫。大友義鑑の子,義鎮の弟。母が大内義隆の姉であったため,天文20(1551)年の義隆の死後,陶晴賢にかつがれて大内氏の家督を嗣ぐ。領国支配の実権は晴賢をはじめとする重臣が握っていた。弘治3(1557)年毛利氏に攻められ長門国長福寺で自殺した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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大内義長
大内[おおうち]氏最後の当主です。大内義隆[おおうちよしたか]の死後、陶晴賢[すえはるかた]によって、大友宗麟[おおともそうりん]の弟であり、義隆のおいにあたる晴英[はるひで]が大内家にむかえられ、義長と名乗りました。しかし、毛利[もうり]氏に攻めこまれ、下関市長府の長福寺[ちょうふくじ]で自害しました。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の大内義長の言及
【豊前国】より
…この戦いは大内方の敗北となり,やがて将軍の仲介で38年両氏の和睦が成立した。その後,豊後守護[大友宗麟]の弟晴英が大内義隆の養子となり,51年には大内氏を相続し大内義長を名のった。しかし55年(弘治1)に中国地方に毛利元就が興って,57年には大内義長を攻め滅ぼした。…
※「大内義長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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