大友村(読み)おおどもむら

日本歴史地名大系 「大友村」の解説

大友村
おおどもむら

[現在地名]生野区小路しようじ二―三丁目・小路東しようじひがし二丁目・同四丁目

東成ひがしなり郡に属し、中川なかがわ村の東にある。村名は往古大友皇子がこの地にいたことによるとも、大伴金村の所領であったことによるともいう(東成郡誌)。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図では東成郡に大友村とあり、元和初年の摂津一国高御改帳、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳、元禄郷帳でも東成郡に属している。しかし「寛文朱印留」や元禄一四年(一七〇一)刊の「摂陽群談」では住吉郡とされる。前掲高御改帳では高一二三石余で以降変化なし。領主変遷は天和元年(一六八一)まで猪飼野いかいの村に同じで、同三年頃の摂津国御料私領村高帳、元禄郷帳ともに幕府領、一村別旧領主并石高では大坂城代役知。


大友村
おおともむら

[現在地名]新発田市大友

宮古木みやこぎ村の北、加治かじ川右岸に位置し、一帯には入会秣場の車野原くるまのはらがある。当地は加地かじ庄地頭佐々木氏の一族大友氏が居館を構えた所という伝えがある。正保国絵図に村名がみえ、三六〇石、村上藩領。延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)によると高五六五石七斗余、免三ツ六分、田畑四七町六反六畝余、家数五三、人数三七六。のち幕府領を経て享保九年(一七二四)黒川藩領となる。同一〇年の指出帳控(同資料)によると本田畑二七町九反五畝余で高四二六石八斗余、新田八町七反四畝余で高一一三石七斗余。ほかに禅宗東泉とうせん寺と山伏万法まんぽう院などの除地(畑)三反九畝余。家数八九、人数四三九(男二二六・女二〇八・僧四・医師一)、馬一七、犬二、川舟二。


大友村
おおどもむら

[現在地名]熊本市城山大塘じようざんおおども

坪井つぼい川左岸に位置し、対岸松尾まつお村、東は上代かみだい村に接し、標高四メートル余の低地にある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では「大塘村」と記し、田方二九町三反・畠方九町八反余、分米四三四石五斗余とある。同一三年の検地帳では「大友村」と記し、家数四五、男三〇・女二〇・子供一〇・うば三・年寄一、牛一〇を記す。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では横手又右衛門手永に属し、当竿前は田三一町四反余・畠七町八反余とある。その後池田手永に属し、宝暦一〇年(一七六〇)の下ケ名寄帳では大塘村と記し、惣畝数五三町五反余で、うち本方五二町四反余・新地一反余・諸開一町余で、庄屋のほか頭百姓六・小百姓七三がいた。


大友村
おおどもむら

[現在地名]前橋市大友町

北は大渡おおわたり村・総社そうじや町、西から南は元総社もとそうじや村、東はたき川を境に内藤分ないとうぶん村に接する。永禄一〇年(一五六七)一一月二五日の武田家朱印状(西光院文書)で小幡孫十郎は「惣社之内大友之郷弐百貫」を与えられる。寛文六年(一六六六)の検地帳(長尾文書)では高崎藩領で、田方六町七反余・畑方八町八反余。寛文郷帳は田方一九八石・畑方二六三石八斗余とある。正徳年間(一七一一―一六)の植野堰最初掘立御普請書(武井文書)では「御料所分」とあり、当時は幕府領であった。寛延二年(一七四九)前橋藩領となるが(更正高崎旧事記)、天明二年(一七八二)再び高崎藩領に復したと思われる。


大友村
おおともむら

[現在地名]新潟市大友

西にし川右岸に立地し、南は中野小屋なかのこや村、北は笠木かさぎ村に接し、東は沼沢地の潟が広がる。天正五年(一五七七)の三条領闕所帳(市川浩一郎氏蔵)に村名がみえる。

元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録では高二〇三石六斗余。天保郷帳では高四一七石一斗余と増加しているが、文政三年(一八二〇)しん川開削などにより、周辺の沼沢地を開墾したものと思われる。明治九年(一八七六)の調べで民家五〇・社三・寺一、男一六〇人・女一六八人・僧一人とあり、牡馬一七疋・荷船二艘・農船三八艘・人力車一両(皇国地誌)


大友村
おおともむら

[現在地名]金沢市大友町

近岡ちかおか村の南、宮腰みやのこし往来の北側に位置。正保郷帳では高四五一石余、田方二八町八反余・畑方一町三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高四六三石、免六ツ三歩(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数八・百姓数一二(高免付給人帳)。のち散小物成として室役一〇匁・油小売役三匁が賦課された(天保一三年村御印物成等書上帳)。金沢町の油屋三人が鞍月くらつき用水を引込んで設けていた製油用水車の撤去を、万治四年(一六六一)北広岡きたひろおか村などとともに改作奉行に願出た同用水水下一三ヵ村の一つであった(国事雑抄)


大友村
おおともむら

[現在地名]呼子町大字大友

小友ことも村の東にあり、玄界灘に面する村。現呼子町の東の飛地。古代登望とも駅に属する地区に比定され、康和四年(一一〇二)の源久の三男勝への譲状案・処分状案(石志文書)には土毛または鞍浦とされる(→小友村。有浦家文書によれば、文永三年(一二六六)七月二九日の源(佐志)房から乙鶴丸への譲状案には「在肥前国松浦西郷佐志村内塩津留神崎鞍田事、四至堺 西限大鞆中庭」とある。


大友村
おおともむら

[現在地名]東庄町大友

大久保おおくぼ村の北東に位置する。正慶元年(一三三二)八月二九日の院主代僧賢栄田畠等注文(金沢文庫文書)にみえる「大伴河辻下」は当地のことか。慶長九年(一六〇四)の香取之郡東之庄大友村御縄打水帳(大友区有文書)では田一二町四反余・一一九石余、畑三町余・一四石余。名請人一五、うち所持反別一町以上は一〇人。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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