日本歴史地名大系 「大塩村」の解説
大塩村
おおしおむら
天正一〇年(一五八二)のものと思われる四月九日付の伊達輝宗書状(伊達家文書)に「会津ヘ内但指越候ヘハ、兎も角も田之同前ニ可有之候由候而、宿迄被相払候間、大塩ニ踞候由申越候」とみえる。「性山公治家記録」同日条などによると、これは蘆名氏と田村氏との和睦斡旋のため伊達輝宗の使者内馬場但馬が会津に派遣されたものの、田村家同様の者として拒絶され、当地に滞留したときのものである。同一二年、会津蘆名氏は伊達氏に対する檜原口の押えとして本村と大窪の中ほど
大塩村
おおしおむら
大塩村
おおしおむら
東は
大塩村
おおしおむら
大塩村
おおしおむら
現美麻村の南端に位置し、村を貫流する
大塩の名は文禄年間(一五九二―九六)に成立したとみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に「六拾五石五斗弐升 大塩村」とみえるのを初見とする。大塩の名の由来は、この村が強粘土地帯であり、古くはそのような地質の所を「しお」ととなえたことによるものであるが、村の中に
村中に古城跡と伝える遺構が二ヵ所あるが、松本盆地より
大塩村
おおしおむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報