大塩村(読み)おおしおむら

日本歴史地名大系 「大塩村」の解説

大塩村
おおしおむら

[現在地名]北塩原村大塩

くぬぎ村の北東、大塩川の上流域に位置し、北西は上川前かみかわまえ村、北東は檜原ひばら村。小沼組(古くは大塩組)に属し、村内で塩湯が湧出したことが地名の由来という(寛文五年「大塩組風土記」)。本村の南西に端村大窪おおくぼ(大久保)、同所の南に小名二沢にのさわ(二ノ沢新田)、本村の東には同遅沢おそざわ(遅沢新田)などがあり、遅沢集落の東には木地師集落のはら(滝の原)があった。檜原峠越米沢街道が通り、宿駅が置かれていた。同街道は南西方の熊倉くまぐら宿(現喜多方市)を出て関屋せきや村・樟村を経て当村に入り、かや(大塩峠)を越えて檜原宿へと向かう。本村集落から八町ほど萱峠の方へ行った所に若松城下から八里にあたる一里塚があり、萱峠には茶屋も設けられていた。なお上川前村は古く当村の端村であったが、寛文年中(一六六一―七三)に分村し、また原は明暦(一六五五―五八)頃に日中につちゆう(現熱塩加納村)から木地師が移り住んで成立した集落という(新編会津風土記)

天正一〇年(一五八二)のものと思われる四月九日付の伊達輝宗書状(伊達家文書)に「会津ヘ内但指越候ヘハ、兎も角も田之同前ニ可有之候由候而、宿迄被相払候間、大塩ニ踞候由申越候」とみえる。「性山公治家記録」同日条などによると、これは蘆名氏と田村氏との和睦斡旋のため伊達輝宗の使者内馬場但馬が会津に派遣されたものの、田村家同様の者として拒絶され、当地に滞留したときのものである。同一二年、会津蘆名氏は伊達氏に対する檜原口の押えとして本村と大窪の中ほど柏木かしわぎ山に城(柏木城などという)を築き、三瓶大蔵を城番として置いた(会津旧事雑考)。翌一三年五月三日に檜原を落した伊達政宗の軍勢は同月八日地内かみやままで進撃してきたが、会津勢が「大塩ノ城」に立籠って備えを固め、合戦に至らず退かせている(政宗記)。萱峠の地字鹿垣ししがきはこのとき会津勢が柵を作って防ぎ守ったことに由来する地名という(新編会津風土記)。同一七年六月一日、政宗の臣原田宗時は出羽北条ほうじよう(現山形県南陽市)上長井かみながい(現米沢市)の勢を率いて大塩に出撃することを命ぜられている(政宗記)。同月五日、伊達勢は磨上すりあげ原で蘆名勢を大破、「蘆名家記」によれば、宗時はこの合戦で第二陣を勤めている。翌六日、政宗が三橋みつはし(現塩川町)に進撃するに及び、持ちこたえていた当地の会津勢も退いたとみえ、「伊達天正日記」同日条には「大塩あけかたに引申候」と記される。

大塩村
おおしおむら

[現在地名]姫路市大塩町・大塩町宮前おおしおちようみやまえ大塩町汐咲おおしおちようしおさき一―三丁目

西浜にしはま川を挟んで的形まとがた村の東に位置し、東はあま川を境に曾根そね(現高砂市)、南は播磨灘に面する。中世には大塩庄とよばれた。慶長国絵図に大塩村とみえる。正保郷帳には庄屋しようや村とあり、田方五一〇石余・畑方二〇七石余、ほかに法泉ほうせん(現廃寺)領一〇石がある。「寛文朱印留」にも庄屋村とあるが、貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に大塩村と記される。元禄郷帳には「古ハ庄屋村」と注記され、高七二八石余。寛保二年(一七四二)の村明細帳(大塩サービスセンター蔵)では本田高六七九石余であるが、新田高を合せた惣高は九三五石余。小物成として犬米・水主米合せて一七石余のほか酒屋運上銀・唐網運上銀などを納めた。家数七九〇・竈数八三〇、人数三千九四九(うち坊主一七・医師四・家大工二・船大工一・座頭三・造酒屋一)、牛三〇、威鉄砲二。用水は春日かすが池など四ヵ所の溜池に依存。

大塩村
おおしおむら

[現在地名]中富町大塩

東は手打沢てうちざわ村から沢を通り一五町、北は柳川やながわ(現鰍沢町)から沢越え山道で二〇町の所に位置し、富士見ふじみ(中山)東側斜面に散在する中山なかやま中一二ヵ村の一つ(甲斐国志)。延享二年(一七四五)の村明細帳(大塩区有文書)によれば、山中に形成された東西三二町・南北二〇町の村域にははぎ吉屋よしや(「甲斐国志」では芳屋)大畑おおはた(同じく新居)という三つの小名があった。元亀二年(一五七一)七月一二日の武田信玄判物写(「河内領古文書」若尾資料)に「河内領十谷大塩郷」とみえ、十石じつこく(現鰍沢町)とともに某人に与えられているが、他の中世史料に例のない「河内領」の使用や二郷全体の一括宛行など文書自体に疑義がある。

大塩村
おおしおむら

[現在地名]金山町大塩

横田よこた村の西一六町、そで山南麓の平原、只見ただみ川北岸に位置する。製塩にも利用された塩分の強い鉱泉を湧出する。村内を伊北いほう街道が通り、只見川を船渡しで横田村に渡る。本村は隣村横田村とかかわりが深く、北の要害ようがい山に山内氏勝が籠城したと伝える中山なかやま城跡がある。天正一八年(一五九〇)一月一三日の石田三成書状(新編会津風土記)に「弥丈夫ニ水窪・大塩両城共ニ可被相事専一之旨、御諚候」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の大沼郡内には村名の記載がなく、伊南いな郷分に大塩二一〇石余とあるが、これが本村分かどうかは明らかでない。

大塩村
おおしおむら

[現在地名]美麻村大塩

現美麻村の南端に位置し、村を貫流する金熊かなくま川に臨んで水田が展開している。

大塩の名は文禄年間(一五九二―九六)に成立したとみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に「六拾五石五斗弐升 大塩村」とみえるのを初見とする。大塩の名の由来は、この村が強粘土地帯であり、古くはそのような地質の所を「しお」ととなえたことによるものであるが、村の中に静の桜しずかのさくらと伝える桜樹があり、大塩は「奥州おうしゆう」であるとして、静御前にまつわる伝説を残している。

村中に古城跡と伝える遺構が二ヵ所あるが、松本盆地より善光寺平ぜんこうじだいらへの通路が大塩村を経過しており、この道に備えてのものと思われるが、城主などを明らかにしない。

大塩村
おおしおむら

[現在地名]山添村大字大塩

箕輪みのわ村北方にある。貞和三年(一三四七)の興福寺造営段米并田数帳(春日神社文書)に「大塩庄 田数不知 号宮方進納 悉難渋」とみえる。

文禄四年(一五九五)の山辺郡大塩村御検地帳(大塩区有文書)に上田三町三反四畝二一歩、中田四町一反八畝二歩、下田三町九反八畝二歩、屋敷三反一畝二八歩、上畠二町二反三畝、中畠二町六反八畝二四歩、下畠八反九畝八歩、荒畠六畝二四歩、合一七町六反六畝二九歩(染茶園山桝共)、合二〇三・一〇七石、検地奉行は横浜一庵(良慶)とみえる。慶長郷帳の村高二一三・一〇七石、幕府領(代官間宮三郎右衛門)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報