大房村(読み)おおふさむら

日本歴史地名大系 「大房村」の解説

大房村
おおふさむら

[現在地名]越谷市大房・大沢おおさわ三丁目・北越谷きたこしがや二―五丁目

大林おおばやし村の南に位置し、南は大沢町、北から西にかけては元荒川を挟んで荻島おぎしま村などに接する。日光道中が通る。元荒川が逆コの字に迂回した自然堤防の広がる所に集落の中心地がある。当地では永禄元年(一五五八)在銘などの板碑が発見されている。戦国期までは下総国葛飾郡下河辺しもこうべ庄に属したと伝え、慶安元年(一六四八)九月の当地浄光じようこう寺宛徳川家光朱印状(浄光寺文書)に「武蔵国葛飾郡大房村薬師堂」とみえる。


大房村
おおぶさむら

[現在地名]近江八幡市大房町

北流する白鳥しらとり川を挟み、船木ふなき村の西に位置する。村域の南端を朝鮮人街道が東西に走る。北は湾入する津田つだ入江であったが現在は干拓陸地化されている。観応元年(一三五〇)一一月一九日の守護六角氏頼奉行人奉書(東寺百合文書)に「問丸尾房源五」とみえ、隣接する船木湊の問丸があった。延文五年(一三六〇)四月二日の寄進状(長命寺文書)に「大房内伊庭後畠七拾二歩得分二斗」などとみえ、長命ちようめい寺中道院に寄せられている。


大房村
だいぼうむら

[現在地名]石下町大房

鬼怒きぬ川東岸、新石下しんいしげ村の南に所在。「新石下村沿革誌」(石下町民俗資料館蔵)によれば慶長六年(一六〇一)より寛永一二年(一六三五)まで天領、この間寛永七年に伊奈忠治検地を受け、同一三年より天和元年(一六八一)まで古河藩土井氏領、同二年より元禄一〇年(一六九七)まで天領、同一一年より明治までは領主三名の相給。


大房村
だいぼうむら

[現在地名]利根町大房

押戸おしと村東南に所在。西南立木たつぎ村。元禄郷帳の村高三八八石余、天保郷帳の村高三九〇石余でほぼ変化がない。「各村旧高簿」によると明治元年(一八六八)の村高は三九〇・四一一石で、旗本藪益次郎知行地二一〇・九一二石、上野録之助知行地一七七・七九七石のほか天領一・七〇二石があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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