大枝村(読み)おおえだむら

日本歴史地名大系 「大枝村」の解説

大枝村
おおえだむら

[現在地名]守口市大枝〈ひがし町・西にし町・みなみ町・きた町〉・東光とうこう町一―三丁目・高瀬旧大枝たかせきゆうおおえだなど

土居どい村の東、守口町の南東に位置する。「河内志」は「旧作大治江」とする。大治江おおはりえは「類聚国史」巻三三の「御厨」の項にみえる(→土居村。大枝はこの大治江がなまったものといわれる。当地が古くには入江であったことは、ハマグリやナガカキの化石が多数出土することからも裏付けられている。南北朝期、存覚が光明こうみよう寺を開き、同寺を拠点に布教活動を行った。河内真宗道場としては早い時期に属し、「存覚一期記」の六一歳(観応元年)の項に大枝の妙覚以下が在洛中の存覚を訪ね、存覚の当地下向を願ったことがみえ、翌年の項に存覚が妙光宿所(光明寺)で越年したことが記されている。


大枝村
うぶたむら

[現在地名]竹富町古見こみ

古見くん村の小村三離みちやーり村の北に位置し、大板とも記す。後良しーら河口右岸に小字大板うぶたが残る。両島絵図帳に大枝村とあり、高三二三石余で古見くん間切の内。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時の書上(八重山島年来記)にはみえず、「琉球国由来記」に花城はなすく村の御嶽とされているシタツ御嶽(現宇根御嶽)・ヲカ御嶽(現請原御嶽)が小字大板にあることから、当時は石垣いしやなぎい間切花城村に属したとみられている(→古見村


大枝村
おおえだむら

[現在地名]春日部市大枝

大畑おおはた村の南東に位置する。村内を日光道中が通る。埼玉郡新方にいがた領に属した(風土記稿)。田園簿では田一九六石余・畑一〇二石余で、ほかに野銭永二六四文がある。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(田園簿・改革組合取調書など)検地は元禄八年(一六九五)の実施を伝える(風土記稿)。悪水路小川会野おがわあいの川一〇ヵ村組合に属した(嘉永五年「小川会野川村々反別割議定証文」駒崎家文書)。日光道中粕壁かすかべ宿の定助郷村で、文久元年(一八六一)の和宮下向時には中山道蕨宿の当分加助郷を命じられたが、免除を願出ている(「和宮下向付御印状写并助郷勤方願書」森泉家文書)。幕末期の家数五七(改革組合取調書)。慶応四年(一八六八)八月には名主とその田方小作人との間で小作年貢にかかわる争論が起き、岩槻役所へ吟味願が出されている(「徒党の者共吟味願」駒崎家文書)


大枝村
おおえだむら

[現在地名]上郡町大枝

上郡村の北、千種ちくさ川に岩木いわき川が合流する地の東対岸の沖積平野および東部山麓に位置する。集落は山裾にあり、上郡村から赤松あかまつ村を経て因幡国に至る道が通る。暦応三年(一三四〇)一一月一八日の赤松円心置文(横山文書)に赤松庄苔縄こけなわ村の南限について「南ハ自観音寺峯、下ハ頓磨之大岩ヲ限、大枝紅ニ岩限、薄奕巌之辻」と記されている。慶長八年(一六〇三)池田輝政は当村のうち一七一石余を中野九右衛門に宛行っている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は井上いのかみ村に同じ。正保郷帳では田高二九〇石余・畠高七三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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