南北朝時代の真宗の僧。常楽台(寺)開基。法印権大僧都。諱(いみな)は光玄。父は本願寺第3世覚如。東大寺で薙髪し,興親と称す。以後叡山にのぼり,尊勝院,十楽院,証聞院などで修学,21歳のとき覚如のもとへ帰る。その間日野俊光の猶子となり光玄と称し,さらに存覚と号した。覚如を補佐して門弟の教化にあたったが,覚如から2度にわたって義絶された。義絶の理由については,教学の不一致や家庭問題,さらに擬制的義絶説など,種々の意見がみられる。父子和解後も存覚は本願寺の留守職を継がなかった。1316年(正和5)室奈有を迎え,5男3女をもうけた。73年2月28日,大谷の北辺今小路で没した。84歳。著書に《浄土真要鈔》《諸神本懐集》《持名鈔》《六要鈔》など多数がある。その生涯は,子息綱厳に口述筆記させた《存覚上人一期記》にあきらかである。
執筆者:北西 弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
南北朝時代の学僧。本願寺覚如(かくにょ)の長子。母は僧教弘(きょうこう)の女(むすめ)。諱(いみな)は光玄(こうげん)。興福寺で出家し、東大寺で受戒(じゅかい)、延暦(えんりゃく)寺で尊勝院玄智(そんしょういんげんち)に師事、十楽(じゅうらく)院・証聞(しょうもん)院で修学、1310年(延慶3)以後、父覚如を補佐した。『諸神本懐集(しょじんほんがいしゅう)』以下の数多くの談義本(だんぎぼん)を製作して親鸞(しんらん)門流の布教活動を教義面から指導した。1353年(文和2)大谷(おおたに)の北辺今小路(いまこうじ)に常楽台(じょうらくだい)を創建し、親鸞の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の初めての注釈書『六要鈔(ろくようしょう)』10巻を完成させた。教学上の相違や家庭問題で父から1322年(元享2)、1342年(康永元)の2度にわたり義絶されたこともあり、本願寺留守職(るすしき)を継職することはなかったが、本願寺教団の教学基礎の確立に寄与した。また、子の綱厳(こうごん)(慈観(じかん))を近江(おうみ)の錦織(きんしょく)寺に入れ、真宗木辺(きべ)派興隆の基礎を築いた。著書の『存覚上人一期記・存覚上人袖日記』(1982年・同朋舎出版)は同時代本願寺史の一級史料である。
[今堀太逸]
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…生涯に3男1女を儲けた。長子存覚は優れた教学者であったが,覚如は2度にわたり存覚を義絶し,本願寺4世は次男従覚の子善如にゆずった。著作に《口伝鈔》《執持鈔》《改邪鈔》《親鸞伝絵》《報恩講式》等がある。…
…真宗僧存覚の著した談義本。奥書によると,元亨4年(1324)1月12日,仏光寺了源の要請により,当時流布していた一本を添削して製作したという。…
…しかし説経が,経典の内容を説くことから興味本位の譬喩談を節をつけて語るようになったのとおなじく,談義も娯楽本位になっていった。とくに浄土教関係の談義僧が多くなり,浄土真宗本願寺3世覚如宗昭の長子存覚は多くの談義本を書いたといわれる。談義僧は夜談義,辻談義,門談義をおこなうようになり,近世には,信仰から離れた人情談などを語る不浄説法を禁止する法度が出されたほどである。…
※「存覚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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