日本歴史地名大系 「大泉庄」の解説
大泉庄
おおいずみのしよう
古代の和泉郡
初見は治承四年(一一八〇)五月一一日の皇嘉門院惣処分状(九条家文書)で、藤原忠通女で崇徳天皇中宮の皇嘉門院聖子が、猶子良通(聖子の異母弟兼実の長子)に当庄と、和泉・摂津・近江の大番舎人を含む内院領の大部分を譲っている。皇嘉門院領の大部分は忠通から譲られたもので、当庄も忠通の時代には成立していたものだろう。貞応元年(一二二二)一〇月二一日の宜秋門院令旨(経光卿記紙背文書)によれば、当庄は仁安年間(一一六六―六九)官符を得て以後、大嘗会役の負担をいっさい免除されてきたと述べており、当庄の成立が仁安年間をさかのぼることが確認できる。良通が文治四年(一一八八)早世した後は、当庄を含む遺領を父兼実が管領することになり、九条家領となった。なお建仁元年(一二〇一)後鳥羽上皇の熊野御幸に参加した藤原定家が記した「後鳥羽院熊野御幸記」一〇月六日条によれば、上皇は
一方、建久八年(一一九七)六月八日の関白家御教書(西南院文書)によれば、高野山平等心院は宜秋門院の祈願所であった。
大泉庄
おおいずみのしよう
- 山形県:東田川郡
- 大泉庄
鎌倉初期からみえる京都長講堂領庄園。地頭は武藤氏流大泉氏。
鎌倉期の地頭は、奥州合戦ののち武藤氏平がなったと考えられる。承元三年(一二〇九)五月五日、羽黒山衆徒は「地頭大泉二郎氏平」が故将軍(源頼朝)によって入部・追捕が禁止されている羽黒山領に入部、料田一万八千枚を横領したとして幕府に訴え、勝訴している(吾妻鏡)。なお建保六年(一二一八)六月二七日に、将軍源実朝が左大将に任じられたとき拝賀のために鎌倉鶴岡八幡宮に向かった行列のなかに「大泉左衛門尉氏平」がおり(同書)、現地には代官が下っていたものと思われる。建長三年(一二五一)三月、高麗の僧了然法明が当地に庵を結んだとき「州牧大泉藤原氏」が地味の肥えた水田を寄進し堂宇を建立したので、教えを請う人が来参したという(日本洞上聯燈録)。この大泉藤原氏は、「吾妻鏡」同二年八月一五日条などに将軍の随兵・近習として「大泉九郎長氏」とみえ、また同四年八月一四日条に「大泉次郎兵衛尉氏村」とみえるので、長氏もしくは氏村と思われる。
大泉庄
おおしみずのしよう
現押水町全域と
大泉庄
おいずみのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報