大窪郷(読み)おおくぼごう

日本歴史地名大系 「大窪郷」の解説

大窪郷
おおくぼごう

荒川下流域左岸の沖積低地に展開していた中世の郷。現浦和市北西部に位置し、上大久保かみおおくぼ・下大久保・大久保領家おおくぼりようけのほか、白鍬しらくわ塚本つかもとなども含む地域に比定される。

観応元年(一三五〇)八月九日の高師直宛行状(安保文書)に大窪郷とみえ、師直は寺岡兵衛入道跡の当郷を安保直実に宛行っている。師直は観応の擾乱に際し、おそらく足利直義方に属していた寺岡兵衛入道から当郷を没収し、師直に従った安保直実に宛行ったものであろう。しかし正平七年(一三五二)一月二二日、足利尊氏は寺岡五郎兵衛入道跡の当郷領家職を安保泰規に勲功の賞として宛行っている(「足利尊氏袖判下文」同文書)。泰規は直実の兄にあたり、当時安保氏の惣領であったと思われる。尊氏は観応の擾乱が終結したあと、師直が先に直実に宛行った当郷の領有権を破棄し、尊氏に従った惣領の泰規に改めてそれを与えたのであろう。

大窪郷
おおくぼごう

現浜松市大久保おおくぼ町に比定され、浜松庄に属する。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)に室町院(暉子内親王)領のうちとして「大窪郷三条三位中将」とあり、三条公雅が領家であったと考えられる。なお正応四年(一二九一)三月二二日の伏見天皇綸旨写(徴古雑抄)に「遠江国浜松庄大窪郷内妙香城寺」とみえるが、この文書は検討の余地がある。永享二年(一四三〇)九月二〇日、大窪地頭方に所在する長福ちようふく寺チヨウフクジが新兵衛尉沙弥栄玄によって長福寺本寺の当地の妙香城みようこうじよう(現廃寺)に寄進された。

大窪郷
おおくぼごう

和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の河内国茨田郡大窪郷には「於保久保」の訓が付されているので、これに準じて訓じておく。「下野国誌」「大日本史」「日本地理志料」「大日本地名辞書」など諸説一致して現足利市大久保おおくぼを遺称地とする。郷域について「日本地理志料」は現足利市鵤木いかるぎ町付近から稲岡いなおか町に至るはた川右岸一帯に、「大日本地名辞書」は現足利市助戸すけど、旧勧農かんのうから大沼田おおぬまた町・大久保町・川崎かわさき町にかけての渡良瀬川左岸域にあてる。

大窪郷
おおくぼごう

「和名抄」東急本は「於保久保」と訓ずる。「続日本紀」養老五年(七二一)正月二七日条の大窪史、「三代実録」貞観六年(八六四)八月一七日条にみえる大窪峯雄・大窪清年などの大窪氏の本拠を当郷とする説もある。また「日本書紀」朱鳥元年(六八六)八月条に、封一〇〇戸を施入されたことのみえる大窪寺(跡地は現奈良県橿原市大久保町)との関係が推測できる郷である。

大窪郷
おおくぼごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、河内国茨田郡の同名郷に「於保久保」(東急本)の訓を付す。「大日本地名辞書」は出羽郡の他郷との関連から推して藤島ふじしま(現東田川郡藤島町)周辺に比定している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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