日本大百科全書(ニッポニカ) 「大藪春彦」の意味・わかりやすい解説
大藪春彦
おおやぶはるひこ
(1935―1996)
小説家。韓国ソウル生まれ。第二次世界大戦後、半死半生の体で日本へ引き揚げるが、このときの苛酷な体験が、徹底的な国家権力への不信感と反発心を植えつけ、のちの創作活動に大きな影響を与える。早稲田大学教育学部中退。在学中の1958年(昭和33)、文芸同人誌『青炎』に発表した「野獣死すべし」が江戸川乱歩の目にとまり、小説誌『宝石』に転載されデビュー。鋭利な頭脳と強靭な肉体をもつ青年伊達邦彦が実行する現金強奪事件を通して、暗いロマンチシズムをたたえながら、ひとりの人間が実行する反社会的な行為を徹底して冷徹な文体で描いたこの作品は大きな衝撃をもって迎えられた。伊達邦彦を主人公とした作品は『野獣死すべし 復讐編』(1960)、『血の来訪者』(1961)、『野獣は、死なず』(1995)などその後の作家活動の主軸をなすシリーズとなる。
しかし、当時の大藪に対する評価はそのほとんどが否定的なものであった。曰く、およそ苦悩とは縁のない小説である。曰く、ピストルや銃、自動車の性能の講釈の多いのがどの作品にも顕著で、非情というより自己顕示欲に駆られた単純無軌道の行動でしかない。曰く、日本のハードボイルドが育たない理由は、大藪作品に代表される現実的基盤の薄弱さにある……等々だ。そうした発言も無理はなかった。というのも、彼の小説の大半は過剰な暴力と性の描写に費やされているかに見えたからである。ところが、大藪作品の本質は閉塞状況にある日常に風穴を穿(うが)つべく、暴力的手段を行使してでも這い上がろうとする個人の野望にあった。同時にそれは、自分を苦しめた国家権力に対する怒りにほかならなかった。そうしたどす黒い情念を結晶化したサクセス・ストーリー的作品に『蘇(よみが)える金狼』(1964)、『汚れた英雄』(1967~69)などがある。『蘇える金狼』は無遅刻無欠勤の、一見平凡なサラリーマン生活を送る男・朝倉哲也が、綿密な計画と秘密の鍛練により現金輸送車を襲い、さらには大企業を相手に大物にのしあがっていくさまが描かれる。日常の生活においてはあくまで従順にして気弱な性格を装いながら、いつか身内に溜めていた社会と権力に対しての怒りを爆発させる機会を狙っている。それはまさしく、一般サラリーマンが日頃夢見ていた姿そのものだった。そういう意味では大藪春彦の作品は、願望充足小説と称してもいい。
もう一つの代表作『汚れた英雄』は、惨めで貧しい境遇から脱出するために、モーター・サイクルのレースに賭けた少年・北野晶夫が、一歩また一歩と世界の頂点に登り詰めるまでの歩みが描かれる。その過程で、主人公は外人女性やレーシング・テクニックなど、日本人が不得手とされる障害を次々と征服。これまた願望充足のサクセス・ストーリーとして成功させた。
一方、伊達邦彦と同様のエージェント・ヒーローものも、巨大な大藪山脈の根幹を成している。代表的作品には、西条秀夫を主人公とする『東名高速に死す』(1970)、『曠野に死す』(1971)などのハイウェイ・ハンター・シリーズと『獣(けもの)たちの墓標』(1973)、『狼は罠に向かう』(1973)などのエアウェイ・ハンター・シリーズがある。そのほか、大藪作品の代表作には『復讐の弾道』(1967)、『黒豹の鎮魂歌』(1972~75)、『傭兵たちの挽歌』(1978)、『戦士の挽歌』(1981)、『アスファルトの虎』(1984~93)など数多いが、絶筆となった未完の長編『暴力租界』(1996)は、チャイニーズ・マフィアの問題を扱っており、最後まで同時代性に富んだ題材に目を向けていた。近年は大藪春彦の再評価がなされ、戦後の小説界において重要な一角を占めるとして認知されるようになった。没後、彼の業績を記念して大藪春彦賞が創設された。これは広くエンターテインメント作品を対象とし、豊かな可能性を秘めた新鋭作家の作品に与えられる。99年(平成11)の第1回は馳(はせ)星周の『漂流街』が受賞した。
[関口苑生]
『『野獣死すべし』『蘇える金狼』『汚れた英雄』『傭兵たちの挽歌』『黒豹の鎮魂歌』『アスファルトの虎』(角川文庫)』▽『『みな殺しの歌』(廣済堂文庫)』▽『『血まみれの野獣』『野獣死すべし 復讐編』『東名高速に死す』『曠野に死す』『獣たちの墓標』『狼は罠に向かう』『戦士の挽歌』『暴力租界』(徳間文庫)』▽『『血の来訪者』『野獣は、死なず』『復讐の弾道』(光文社文庫)』▽『野崎六助著『大藪春彦伝説』(1996・ビレッジセンター出版局)』▽『『大藪春彦の世界』(1999・徳間書店)』