日本大百科全書(ニッポニカ) 「大辻清司」の意味・わかりやすい解説
大辻清司
おおつじきよじ
(1921―2001)
写真家。東京市城東区大島(現、東京都江東区大島)生まれ。1942年(昭和17)東京写真専門学校(現、東京工芸大学)芸術科に入学(第二次世界大戦後に1944年9月付け卒業認定を受ける)。在学中の1943年に陸軍に応召。終戦後除隊、写真スタジオや雑誌『家庭文化』編集部勤務を経て1947年(昭和22)新宿で写真スタジオを開業。1949~1952年美術文化協会に参加。1953年実験工房、グラフィック集団に参加。1956年雑誌『芸術新潮』嘱託写真家となり、1970年代まで美術雑誌、建築雑誌や企業PR誌などさまざまな出版物のための写真撮影を担当。1958~1978年に桑沢デザイン研究所で写真の授業を担当し、以後、東京造形大学(1967~1976)、筑波大学(1976~1987)、九州産業大学(1987~1996)などで教鞭をとる。1960年代から写真雑誌、美術雑誌などにエッセイや写真評論を寄稿、同時代の写真の観察者、批評家としても大きな役割を果たした。
中学時代に写真雑誌『フォトタイムス』に掲載されたヨーロッパの前衛的な写真や滝口修造、美術家阿部展也(のぶや)の論考などに触れて写真家を志した大辻は、戦後、美術家斎藤義重(よししげ)と知り合い、斎藤の所属する美術文化協会に参加。同協会展に出品したシュルレアリスム的な意識や造型感覚の際立つ作品などによって写真家としての評価を得た。また絵画、詩、音楽など多様なジャンルの表現者が集まり、総合的な芸術を目ざした実験工房(1951年結成、1958年ごろまで活動)や、デザイナーや写真家などグラフィック・デザインに携わる専門家によって結成されたグラフィック集団(1953~1957)のメンバーとして、『アサヒグラフ』誌のコラム「ΑPN」のカット写真(1953~1954。山口勝弘らとの共作)や、フィルムに直接書きこみや着色を加えた抽象的映像表現による実験映画「キネカリグラフ」(1955。石元泰博・辻彩子(さいこ)(1929― )との共作。シネカリグラフともいう。音楽・武満徹(たけみつとおる)、命名・滝口修造。第2回グラフィック集団展で発表)など、さまざまな共同制作を行った。
1960年代以降は教育者としての活動に比重を移し、高梨豊、山田脩二(1939― )、牛腸茂雄(ごちょうしげお)(以上、桑沢デザイン研究所)、島尾伸三(1948― )、鈴木秀ヲ(1953― )(以上東京造形大学)、畠山直哉(筑波大学)など多くの写真家を育てる。1960年代末には日本の若い写真家たちによる日常的光景に淡々とアプローチする傾向の写真を、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館(アメリカ、ニューヨーク州ロチェスター)の「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会的風景に向かって」展(1966)に結びつけて分析し、その新傾向が「コンポラ写真」と通称されるきっかけをつくった。このころから自身も日常的光景のスナップショットを意識的に試みはじめる。事物の存在に鋭く迫る従来の作風に加え、後に自らシュルレアリスムにおける自動筆記と結びつけて分析したスナップショット作品は、写真を介した探究の起点となる主観、自らの意識の立脚点への問いとして大辻の作品世界に広がりを加えた。1975年に『アサヒカメラ』誌に連載された写真と文章による「大辻清司実験室」では、自らに実験者、被験者という二重の役割を課し、自分の撮影行為を客観的に分析、写真を介した世界とのかかわり方、そこに現れる主観と客観についての根源的な問いを展開した。
長く教育者、批評家としての業績が評価されてきたが、1990年代末より表現者としての仕事が、「大辻清司写真実験室」展(1999、東京国立近代美術館)などを通じて再評価されている。
[増田 玲 2018年5月21日]
『『写真ノート』(1989・美術出版社)』▽『長野重一・飯沢耕太郎・木下直之編『日本の写真家21 大辻清司』(1999・岩波書店)』▽『大日方欣一編『大辻清司の仕事1946―1999』(2000・モール写真パラダイム・パラダイス研究所)』▽『「大辻清司写真実験室」(カタログ。1999・東京国立近代美術館)』