斎藤義重(読み)さいとうよししげ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎藤義重」の意味・わかりやすい解説

斎藤義重
さいとうよししげ
(1904―2001)

洋画家造形作家。明治37年5月4日東京生まれ。日本中学校時代から油絵を始めるが、1920年(大正9)ロシア未来派のブルリュークとパリモフの来日展覧会をはじめ、村山知義などの大正期前衛美術運動に強い刺激を受け、早くから立体構成的な作品を手がける。36年(昭和11)二科展に初入選し、前衛的な作品を集めた第9室に展示される。その後、同室の作家による九室会に参加。39年美術文化協会創立に参加。53年(昭和28)退会後は無所属。57年日本国際美術展でK氏賞、59年同展で国立近代美術館賞、同年国際美術評論家連盟賞、60年、現代日本美術展で最優秀賞、グッゲンハイム賞国際展では国内賞と国際賞を受け、61年サン・パウロ・ビエンナーレ展で国際絵画賞を受けた。多摩美術大学教授(1964~73)として後進の指導にあたるが、60年代なかばから、各種の素材を自由に用いて、斬新(ざんしん)な三次元造形へと移った。78年東京国立近代美術館で大規模な個展開催。ほかにも84年東京都美術館ほか、93年(平成5)横浜美術館ほか、99年神奈川県立近代美術館で個展を開催した。1984年度の朝日賞を受賞。平成13年6月13日死去。

[小倉忠夫・柳沢秀行]

『『斎藤義重』(1964・美術出版社)』『東京画廊編『斎藤義重』(1974・土井印刷)』『東京都美術館ほか編『斎藤義重展』(1984・東京都美術館)』『横浜美術館学芸部編『斎藤義重による斎藤義重展』(1993・朝日新聞社)』『神奈川県立近代美術館編・刊『斎藤義重展図録』(1999)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「斎藤義重」の解説

斎藤 義重
サイトウ ギジュウ

昭和・平成期の美術家



生年
明治37(1904)年5月4日

没年
平成13(2001)年6月13日

出生地
青森県弘前市

学歴〔年〕
日本中学卒

主な受賞名〔年〕
今日の新人57年展新人賞〔昭和32年〕,日本国際美術展K氏賞(第4回)〔昭和32年〕「鬼」,日本国際美術展国立近代美術館賞(第5回)〔昭和34年〕「青の跡」,サンパウロ・ビエンナーレ展国際美術評論家連盟賞(第5回)〔昭和34年〕,現代日本美術展最優秀賞(第4回)〔昭和35年〕「作品R」,グッゲンハイム国際美術展国内賞・国際賞(第3回)〔昭和35年〕「作品R」,サンパウロ・ビエンナーレ展国際絵画賞(第6回)〔昭和36年〕,日本国際美術展国立近代美術館賞(第7回)〔昭和38年〕,朝日賞(昭59年度)〔昭和60年〕,横浜文化賞(第42回)〔平成5年〕

経歴
中学在学中から油絵を始めるが、文学に惹かれて一時制作を中断。大正9年に開催されたロシア亡命画家の展覧会に衝撃を受け、昭和8年頃から絵画制作を再開。ロシア構成主義やダダイスムなど前衛美術を独学して抽象的作品を描き、11年二科展初入選。13年吉原治良らと共に二科会の内部に前衛グループの九室会を結成。14年福沢一郎を中心にした美術文化協会の創立に参加し、彩色合板レリーフ「トロウッド」シリーズなどの作品を発表。28年同会を退会し、美術界から遠去かった。のちシュールの傾向から独自の非具象作風に移り、32年「鬼」が日本国際美術展K氏賞を受賞。以来、国内外で数々の賞を受賞。48年戦前の合板レリーフ作品を集中的に再制作し、反響を呼んだ。51年以降は素木の板を組み合わせたレリーフ状の作品を発表。53年からは同種の素材による幾何学的な立体作品も手がけた。同年東京国立近代美術館で現代美術家としては初の回顧展を開催。前衛美術の先駆者の一人として国内外で注目を集めた。また、39〜48年多摩美術大学教授を経て、57年東京芸術専門学校を設立、校長に就任。幅広い自由教育風の薫陶によって多くの学生に大きな影響を及ぼした。他の代表作に「青の跡」「ペインティングE」「作品R」「やじろべえ」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斎藤義重」の意味・わかりやすい解説

斎藤義重
さいとうよししげ

[生]1904.5.4. 東京,東京
[没]2001.6.13. 神奈川,横浜
造形作家。日本の現代美術の先駆者。旧制中学校在学中から独学で油絵を始め,ダダ構成主義などの影響を受けて前衛美術を志した。1938年二科会の九室会結成に参加し,翌 1939年の第1回展に平面でも立体でもない作品『トロウッド』を出品した。また,この年に美術文化協会の創立に参加したが 1953年に退会。一時沈黙していた時期があったが,50歳を過ぎてから頭角を現した。1957年に日本国際美術展に出品した『鬼』は文字をモチーフにした明快な抽象絵画で,K氏賞を受賞。1959年国際美術評論家連盟賞,1960年に『作品R』で現代日本美術展最優秀賞とグッゲンハイム賞国際展の国内賞と国際賞,1961年サンパウロ・ビエンナーレ(→ビエンナーレ)で国際絵画賞を受賞し,国際的な評価を高めた。1970年代は素木(しらき)の板を組み合わせた単純な造形,1980年代は木をボルトで連結した立体作品に移行。晩年はラッカーで黒く着色した板を組み合わせ,床や壁面に設置して空間全体を作品化したインスタレーションの発表を続けた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「斎藤義重」の意味・わかりやすい解説

斎藤義重 (さいとうよししげ)
生没年:1904-2001(明治37-平成13)

美術家。東京生れ。若年時に大正期前衛美術の動向に触れて衝撃をうける。いったん美術から離れるが,1920年代末期に前衛美術作家の一人として再び活動。戦後57年にカムバックして以来,国際的にも高い評価を得,また60年代半ば以降,若い世代の作家たちに直接間接に大きな影響を及ぼした。戦前すでに抽象的絵画やレリーフ状の構成的作品によってスタートを切り,戦後の一時期抽象表現主義の絵画を制作した以外は,一貫して絵画でも彫刻でもない独自の半立体の構成的作品を生み出す。近年は黒く塗った木材によって空間を構成する作品を手がける。大正期から今日まで,常に先鋭的な表現を追求した特異な画家である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「斎藤義重」の意味・わかりやすい解説

斎藤義重【さいとうよししげ】

美術家。東京生れ。戦前,二科会,九室会グループ,美術文化協会に属したが,のち無所属で抽象的表現による新しい絵画を追求した。また,木材による立体作品も制作。日本国際美術展,現代日本美術展で最優秀賞を受けたほか,グッゲンハイム展,サンパウロ・ビエンナーレ展など多くの国際展で受賞。
→関連項目サン・パウロ・ビエンナーレ宮脇愛子もの派

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤義重」の解説

斎藤義重 さいとう-よししげ

1904-2001 昭和-平成時代の洋画家,造形作家。
明治37年5月4日生まれ。油絵のほか,合板によるレリーフを制作。昭和11年二科展に初入選。14年美術文化協会の創立にくわわる。35年グッゲンハイム国際美術展,36年サンパウロ-ビエンナーレで受賞。60年朝日賞。素木の板を素材とし,平面,立体とつねに前衛的な造形にいどむ。39-48年多摩美大教授。平成13年6月13日死去。97歳。東京出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「斎藤義重」の解説

斎藤 義重 (さいとう よししげ)

生年月日:1904年5月4日
昭和時代;平成時代の洋画家;美術家。多摩美術大学教授
2001年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android