天津 乙女(読み)アマツ オトメ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「天津 乙女」の解説

天津 乙女
アマツ オトメ


職業
宝塚スター 日本舞踊家

肩書
宝塚歌劇団理事

本名
鳥居 栄子(トリイ エイコ)

別名
別名=藤間 乙女(日本舞踊)

生年月日
明治38年 10月9日

出生地
東京市 神田区小川町(東京都 千代田区)

学歴
青山尋常小〔大正7年〕卒,宝塚音楽歌劇学校卒

経歴
6人きょうだい(2男4女)の一番上の長女。宝塚が始まって4年後の大正7年、知り合いであるジャーナリスト結城礼一郎の勧めで東京採用生徒の第1号として宝塚少女歌劇に入団。それまで宝塚の存在を全然知らず、東京での入学試験も前日に終わっていたが、結城の口利きもあって一人だけの試験が開かれて合格。芸名百人一首の「天津風雲の通い路吹き閉ぢよ乙女の姿しばし止めん」にちなみ、やがて同じく宝塚に入った妹の雲野かよ子も同じ歌が芸名の由来となった。同年「馬の王様」「鼎法師」「お蚕祭」で初舞台を踏む。8年「鞍馬天狗」の牛若丸役で初主演。月組に所属し、昭和3年月組組長。日本舞踊に才能を発揮し、楳茂都陸平、藤間小勘、花柳禄寿らに師事藤間流名取で、8年宝塚に日本舞踊専科が出来ると月組組長から専科入り。レビューの中に日本舞踊をとけ込ませ、洋楽で踊る日本舞踊を完成させた。代表的なレビューに「鏡獅子」「棒しばり」「道成寺」などがある。13年芸術使節としてドイツを訪問。15年から16年にかけて、奈良美也子葦原邦子小夜福子、それに妹の雲野かよ子らが宝塚を退団した後も歌劇団に残った。23年宝塚に労働組合が誕生すると、須藤五郎委員長の下で副委員長。同年副委員長であることを心配した創立者・小林一三の計らいで、生徒から初めて宝塚歌劇団の理事に就任。54年10月、宝塚大劇場での宝塚舞踊会で踊った「鏡獅子」が最後の舞台となった。この間、33年紫綬褒章、51年勲四等宝冠章を受章。いずれも歌劇団生徒として初めて。自伝「清く正しく美しく」がある。

受賞
紫綬褒章〔昭和33年〕,勲四等宝冠章〔昭和51年〕

没年月日
昭和55年 5月30日 (1980年)

家族
妹=雲野 かよ子(宝塚歌劇団団員),池辺 鶴子(宝塚歌劇団団員),弟=鳥居 正一郎(阪急百貨店社長)

伝記
サ・セ・宝塚泣きどころ人物誌 橋本 雅夫 著戸板 康二 著(発行元 読売新聞社文芸春秋 ’88’87発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「天津 乙女」の解説

天津 乙女
アマツ オトメ

大正・昭和期の日本舞踊家,宝塚スター 宝塚歌劇団理事。



生年
明治38(1905)年10月9日

没年
昭和55(1980)年5月30日

出生地
東京・神田

本名
鳥居 栄子(トリイ エイコ)

別名
別名=藤間 乙女(日本舞踊)

学歴〔年〕
宝塚音楽学校卒

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和33年〕,勲四等宝冠章〔昭和51年〕

経歴
宝塚歌劇創立から4年後の大正7年、東京採用生徒の第1号として入団し、以来宝塚歌劇ひと筋に62年。また日舞の第一人者として知られ、昭和54年10月18日に宝塚大劇場での宝塚舞踊会で踊った「鏡獅子」が最後の舞台となった。この間、23年に歌劇団理事となり、33年に紫綬褒章、51年に勲四等宝冠章を受けたが、いずれも歌劇団生徒としては初めてのこと。53年には自伝「清く正しく美しく」が歌劇団から出版されている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「天津 乙女」の解説

天津 乙女 (あまつ おとめ)

生年月日:1905年10月9日
昭和時代の日本舞踊家;宝塚スター
1980年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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