デジタル大辞泉
「小林一三」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
こばやし‐いちぞう【小林一三】
- 実業家。山梨県出身。慶応義塾卒。箕面(みのお)有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)を創立。乗客を集めるため、宝塚少女歌劇団、阪急百貨店を創始し、私鉄経営に新機軸を打ち出した。また、東京電灯(現在の東京電力)、東宝社長として電気業界、興行界にも重きをなした。第二次近衛内閣に商工相、幣原(しではら)内閣に国務相として入閣。明治六~昭和三二年(一八七三‐一九五七)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
小林一三
こばやしいちぞう
(1873―1957)
実業家。阪急東宝グループ(現、阪急阪神東宝グループ)などの創始者で、新機軸を導入して私鉄経営のモデルをつくった。山梨県出身。慶応義塾卒業後、三井銀行に入る。1907年(明治40)転じて箕面有馬(みのおありま)電気軌道(のち阪急急行電鉄)の創立に参画、専務となる。宅地開発、娯楽施設、百貨店などを電鉄経営に組み合わせるアイデアを採用し、路線を拡大して田舎(いなか)電車を屈指の電鉄会社に育てた。1927年(昭和2)社長、1934年会長に就任。宝塚の少女唱歌隊を宝塚少女歌劇団、阪急ビルのマーケットを阪急百貨店へと発展させる。1932年東京宝塚劇場を設立し、日劇、帝劇を合併して有楽町に娯楽センターをつくり、映画事業にも進出して東宝を創立する。東京電燈(でんとう)(東京電力の前身)の経営立て直しで評価され、1933年社長となる。1940年商工大臣、1945年国務大臣兼戦災復興院総裁に就任。第二次世界大戦後は、東宝の再建を果たし、またコマ劇場を大阪・梅田と東京・新宿に設立した。
[前田和利]
『小林一三全集編集委員会編『小林一三全集』全7巻(1961~1962・ダイヤモンド社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
小林 一三
コバヤシ イチゾウ
- 肩書
- 元・商工相,阪急グルーブ創始者,元・東宝社長
- 別名
- 号=逸翁
- 生年月日
- 明治6年1月3日
- 出生地
- 山梨県北巨摩郡韮崎町(現・韮崎市)
- 学歴
- 慶応義塾〔明治25年〕卒
- 経歴
- 明治26年三井銀行入社。40年箕面有馬電鉄(現・阪急電鉄)創立に参加して専務となり、大正3年宝塚少女歌劇、東宝映画などを創設、昭和2年社長。阪急百貨店、東京電灯(東京電力の前身)各社長のほか、15年第2次近衛内閣の商工相も務め、“今様太閤”といわれた。敗戦後も20年幣原内閣の国務相、復興院総裁に就任。21年公職追放。26年解除後東宝社長に就任、コマ劇場を建設した。43年野球殿堂入り。著書に「小林一三全集」(全7巻)がある。
- 没年月日
- 昭和32年1月25日
- 家族
- 長男=小林 富佐雄(東宝社長) 三男=小林 米三(阪急電鉄社長) 孫=松岡 功(東宝会長) ひ孫=松岡 修造(テニス選手)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
小林一三 (こばやしいちぞう)
生没年:1873-1957(明治6-昭和32)
都市近郊私鉄経営の先駆者。山梨県に生まれる。1892年慶応義塾を卒業後三井銀行に入社したが,1907年初めに辞職,同年10月,箕面有馬電気軌道(1918年阪神急行電鉄と改称,現阪急電鉄)を創設して専務となり,27年に社長に就任した。この間,乗客誘致のため沿線で住宅地を分譲し,宝塚には遊園地を開いて宝塚少女歌劇団をおこし,さらに梅田のターミナルビルでデパートを経営するなど,その独創的な経営戦略は私鉄経営の模範とされた。また27年以降は東京電灯(現,東京電力)の経営再建で活躍する一方,興行界にも進出し,東京宝塚劇場,東宝映画(1943年に合併して東宝となる)を創設して,松竹に対抗した。40年には第2次近衛文麿内閣の商工大臣,45年には幣原喜重郎内閣の国務大臣兼復興院総裁に就任したが,公職追放にあう。51年の追放解除後は東宝の社長に復帰。
執筆者:野田 正穂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
小林 一三
コバヤシ イチゾウ
明治〜昭和期の実業家,政治家 阪急グルーブ創始者;元・東宝社長;元・商工相。
- 生年
- 明治6年1月3日(1873年)
- 没年
- 昭和32(1957)年1月25日
- 出生地
- 山梨県北巨摩郡韮崎町(現・韮崎市)
- 別名
- 号=逸翁
- 学歴〔年〕
- 慶応義塾〔明治25年〕卒
- 経歴
- 明治26年三井銀行入社。40年箕面有馬電鉄(現・阪急電鉄)創立に参加して専務となり、大正3年宝塚少女歌劇、東宝映画などを創設、昭和2年社長。阪急百貨店、東京電灯(東京電力の前身)各社長のほか、15年第2次近衛内閣の商工相も務め、“今様太閤”といわれた。敗戦後も20年幣原内閣の国務相、復興院総裁に就任。21年公職追放。26年解除後東宝社長に就任、コマ劇場を建設した。43年野球殿堂入り。著書に「小林一三全集」(全7巻)がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
小林一三
こばやしいちぞう
[生]1873.1.3. 山梨,韮崎
[没]1957.1.25. 大阪,池田
実業家。 1892年慶應義塾卒業。翌 1893年三井銀行に入社したが 1907年退社,同年箕面有馬電気軌道 (現阪急電鉄 ) の設立に参加して専務に就任,以後鉄道沿線の宅地開発,娯楽施設の設置により路線を新設。やがて実業界の第一人者となり,阪急百貨店などの設立にも成功し,またこの間東京電灯,日本軽金属の社長を歴任。興行面では 1913年宝塚少女歌劇団,1937年東宝映画を設立。 1940年第2次近衛内閣の商工大臣,1945年幣原内閣の国務大臣兼復興院総裁となったが,1946年追放令公職追放により公職を退いた。 1951年追放解除とともに東宝社長に復帰,東京有楽町のアミューズメント・センターの復興,宝塚歌劇の強化に努め,大阪,京都,名古屋に大劇場を建て,映画,演劇,ミュージカルの興行を盛んにした。 1956年には新たな国民演劇育成を目指して大阪梅田と東京新宿にコマ劇場を建設した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
小林一三【こばやしいちぞう】
実業家。山梨県出身。慶応義塾卒。三井銀行員を経て箕面有馬電鉄(阪急電鉄の前身)の創業に関与。以来電鉄・電力界で活躍,東京電灯会社社長にもなった。また宝塚歌劇団や東宝を育てあげ興行界でも成功。第2次近衛,敗戦後の幣原の両内閣に入閣した。
→関連項目大谷竹次郎|菊田一夫
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
小林一三 こばやし-いちぞう
1873-1957 明治-昭和時代の実業家。
明治6年1月3日生まれ。40年箕面(みのお)有馬電気軌道(現阪急電鉄)の創立にかかわり,専務,のち社長。沿線の宅地開発,宝塚少女歌劇団の創設,大阪梅田のターミナルデパート開設など独創的な多角化戦略を展開。また東京宝塚劇場や東宝映画を創立。第2次近衛(このえ)内閣の商工相,幣原(しではら)内閣の国務相。公職追放解除後は東宝社長。大阪,東京にコマ劇場を設立。昭和32年1月25日死去。84歳。山梨県出身。慶応義塾卒。
【格言など】すべての事業の対象は大衆であり,どんな仕事の末端も大衆につながっている
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
小林 一三 (こばやし いちぞう)
生年月日:1873年1月3日
明治時代-昭和時代の実業家(阪急グループ創始者);政治家
1957年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の小林一三の言及
【少女歌劇】より
…
[宝塚歌劇団]
1912年に白木屋呉服店が西野恵之助の提唱で少女歌劇団を結成,同店演芸場で歌劇《羽子板》を上演したのが少女歌劇のはじめといわれる。一方,大阪三越の少年音楽隊にヒントを得て箕面有馬(みのおありま)電気軌道株式会社(阪急電鉄の前身)の[小林一三](いちぞう)が宝塚少女歌劇養成会を発足させ,14年に第1回公演を,宝塚新温泉プールを改造したパラダイス劇場で開いた。プログラムは桃太郎に取材した《ドンブラコ》《浮れ達磨(だるま)》《胡蝶(こちよう)》の3本立,第1期生には高峰妙子,雲井浪子ら16人がいた。…
【宝塚[市]】より
…宝塚の発展は1910年に箕面(みのお)有馬電気軌道(現,阪急電鉄宝塚線)の大阪梅田~宝塚間の開通に始まる。経営者[小林一三]は,乗客誘致策として宝塚に温泉と劇場を開設した。大正初期に宝塚少女唱歌隊(現,宝塚歌劇団)が誕生すると非常な人気を呼んだため,4000人収容の大劇場や宝塚音楽学校が次々に建設された。…
【東宝[株]】より
…演劇,映画,芸能の製作配給,興行会社。宝塚少女歌劇の東京公演のために,[小林一三]が1932年8月設立。34年東京宝塚劇場を開場した。…
【阪急電鉄[株]】より
…神戸高速鉄道に属する三宮~西代間も第二種鉄道事業として営業している。[小林一三]が創設した。1907年創立の箕面有馬(みのおありま)電気軌道が建設した宝塚線を最初とし,18年に阪神急行電鉄と改称して神戸線を開いた。…
※「小林一三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」