大仏次郎の連作時代小説で,短編《鬼面の老女》(1924)から《西海道中記》(1959)まで36編の作品をさす。いずれも鞍馬天狗を主人公としている。《御用盗異聞》《角兵衛獅子》《天狗廻状》《宗十郎頭巾》《江戸日記》《雁のたより》などがとくに名高い。作者はこの主人公を謡曲《鞍馬天狗》から思いついて,不死身の超人的な武士にふさわしい命名をした。倉田典膳,館岡弥吉郎,海野雄吉などの仮名もあるが,本名は不明である。初登場時には1862年(文久2)に40歳近かったのが,後年の作品では69年(明治2)に30そこそこと逆に若返った。鞍馬天狗は薩長と協力して討幕運動に挺身する勤王の志士だが,初期作品中でもすでに,無益な殺生を好まず,また目的と手段とのかかわりについて悩む人間的な性格を示している。大仏次郎の戦後の現代小説に登場する同じタイプの人物(《旅路》の瀬木義高,《帰郷》の守屋恭吾など)との比較などから,鞍馬天狗は作者の市民精神の形象化といわれている。
執筆者:村上 光彦
映画化作品は,尾上松之助主演《鞍馬天狗》となって早くも翌1925年に現れた。以後,その本数は63本を数え(61本との説もある),歴代の鞍馬天狗俳優は,尾上松之助のあと,嵐長三郎(のち寛寿郎),市川百々之助,坂東好太郎,斯波大輔,榎本健一,杉山昌三九,佐分利信,島田正吾,小堀明男,東千代之介,市川雷蔵である。鞍馬天狗役を最大の当り役としたのはアラカンこと嵐寛寿郎で,27年のデビュー作《鞍馬天狗余聞・角兵衛獅子》から56年の《疾風!鞍馬天狗》まで,前記63本のうち40本に出演した。マキノ映画からはじまって,かかわった映画会社のどこでも必ず鞍馬天狗役を演じたことになり,アラカン=鞍馬天狗というイメージは不動のものとなった。この間,原作者の大仏次郎があまりに人を斬りすぎるなどの理由で異を唱え,1954年,みずから〈鞍馬天狗プロダクション〉を設立,東宝と組んで,小堀明男を鞍馬天狗役に3本の作品を製作したが,興行的に成功せず,56年にはアラカン=鞍馬天狗が復活した。40年以上の長命をもつ,おそらく日本映画史上最長といえる《鞍馬天狗》シリーズの魅力は,むろん主人公鞍馬天狗の痛快なヒーローぶりにあるが,そこには一種の二重性が感じられる。まず鞍馬天狗は,倉田典膳という仮の名以外,本名が不明で,年齢,出身地も定かではない。つまり,黒覆面(宗十郎頭巾)が象徴するように,勤皇派という立場を除けば,すべてはなぞに包まれていて,まさしく〈怪人〉と呼びうる。だが,この〈怪人〉はつねに明朗闊達で,正しい,強い,やさしい人物として行動する。とくにやさしさの一面は,角兵衛獅子の孤児,杉作から〈天狗のおじさん〉と慕われるように,子ども好きの性格として強調され,嵐寛寿郎の天狗に対して美空ひばりや松島トモ子が杉作を演じた作品は,幼少ファンの心をとらえ,〈怪人〉ならぬ〈快人〉鞍馬天狗となり,その〈快人〉ぶりは,〈怪人〉性によっていっそう際だつという二重性をもつことになった。勤皇派とはいえ,狭い党派性にとらわれず,いわば自由人の雰囲気をただよわせていて,たとえばそれは,宿敵近藤勇を〈あなた〉と呼び,フェア・プレーの勝負を行うことに現れている。個としての自己に立った自由人というイメージによって,時代劇でありつつ強い現代性をもつことに成功した。このシリーズの魅力はそこにあったといえよう。
執筆者:山根 貞男
能の曲名。五番目物。宮増(みやます)作。シテは大天狗。鞍馬山の僧(ワキ)が大勢の稚児(子方)を連れて花見に出かける。小舞などに興じていると,その席にぶしつけな山伏(前ジテ)が来て座り込むので,僧たちは立ち去るが,1人だけ居残った稚児が山伏に親しげにことばをかける。それが源義朝の遺児牛若だった。平家の稚児たちにのけ者にされていることに同情した山伏は,牛若と連れ立って山々の桜を見て歩くが,自分は実はこの山の大天狗だと明かし,明日の再会を約束して僧正ヶ谷へ立ち去る。牛若が薙刀(なぎなた)を手にして待っていると,大天狗(後ジテ)が日本各地の天狗たちを引き連れて現れる。大天狗は,漢の張良が黄石公(こうせきこう)に沓(くつ)をささげて兵法を授かった故事を物語り(〈語リ〉),牛若に力を授け,将来の守護を約束する(〈ノリ地〉)。実際の舞台には天狗は1人しか登場しない。ただし〈天狗揃(てんぐぞろえ)〉と称して天狗を大勢出す特殊演出もある。豪快な後場だが,前場には男色めいたつやがある。人形浄瑠璃《鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりやくのまき)》などの原拠である。
執筆者:横道 万里雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大仏次郎(おさらぎじろう)の創造した代表的ヒーローで、その活躍を描いた連作の書名。1924年(大正13)に『鬼面の老女』を発表以来、1965年(昭和40)の『地獄太平記』まで、長短あわせて46本の連作がある。『角兵衛獅子(かくべえじし)』『山嶽(さんがく)党奇談』などの少年小説のほか『天狗廻状(かいじょう)』『新東京絵図』などが話題をよんだ。主人公鞍馬天狗は、初めは尊王攘夷(じょうい)派として活躍するが、立場を超えた時代の批判者に成長、剣の自由人としてふるまう。これは大仏の市民的良識とリベラルな思考の表れであり、壮快な剣のロマンとして広く愛読され、宗十郎頭巾(ずきん)で顔を包み馬を駆って行く天狗像は、嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)主演の映画などを通して、昭和期の大衆のアイドルとなった。
[尾崎秀樹]
日本映画。1927年(昭和2)、嵐寛寿郎(当時は嵐長三郎(ながさぶろう))の映画デビュー作で、正式題名は『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』。曽根純三(そねじゅんぞう)(1898―?)監督、マキノ映画作品。勤王の志士・鞍馬天狗が、角兵衛獅子の少年・杉作(松尾文人(まつおふみんど)(1916―?)監督)らと新撰組(しんせんぐみ)に挑む。大仏次郎の鞍馬天狗は、実川延松(じつかわえんしょう)(1894―?)が演じた『女人地獄』(1924年、帝国キネマ、長尾史録(ながおしろく)監督)や、尾上松之助(おのえまつのすけ)が監督・主演した『鞍馬天狗 第一篇』(1925年、日活)でも映画化されていたが、嵐寛寿郎の痩躯(そうく)を生かした俊敏な立ち回りと覆面の大活劇が観客を魅了し、一世一代の当り役となった。以後、鞍馬天狗といえば嵐寛寿郎のイメージが定着し、嵐寛寿郎プロ、日活、大映、松竹、新東宝、東映、宝塚と40作以上生み出されるほど、老若男女に愛されたが、原作者・大仏次郎との映画化権の確執などから、1956年(昭和31)の『疾風!鞍馬天狗』(宝塚、並木鏡太郎(なみききょうたろう)(1902―2001)監督)が最後となった。その後は、東映の東千代之介(あずまちよのすけ)(1926―2000)版(1956~1959)、大映の市川雷蔵(いちかわらいぞう)(1931―1969)版(1965)がつくられた。
[冨田美香]
『『鞍馬天狗』全10冊(1981・朝日新聞社)』▽『西山光燐編『寛壽郎映画』(1991・西山光燐)』▽『竹中労著『鞍馬天狗のおじさんは――聞書アラカン一代』(1992・筑摩書房)』▽『御園京平編『劍星嵐寛壽郎』私家版(1994・御園京平)』▽『渡辺才二・嵐寛寿郎研究会編著『剣戟王嵐寛寿郎』(1997・三一書房)』▽『石割平編『鞍馬天狗』(2007・ワイズ出版)』▽『大佛次郎記念館編『鞍馬天狗読本』(2008・文芸春秋)』
能の曲目。五番目物。五流現行曲。宮増(みやます)の作。鞍馬山西谷の寺からの使いに迎えられて、東谷の僧(ワキ、ワキツレ)が大ぜいの稚児(ちご)を連れて花見の宴をしていると、魁偉(かいい)な山伏(前シテ)が闖入(ちんにゅう)する。同座を嫌がって人々が去ったあと、平家一門の稚児たちのなかで孤立の身を嘆く牛若丸(子方)と山伏が残され、牛若丸に同情した山伏は花の名所へといざない、自分はこの山の大天狗であることを明かし、兵法を伝え平家を討たせ申そうと約して雲に消える。この2人の場面には、中世特有の同性間の愛情のおもかげも残る。アイ狂言の木の葉天狗が出て兵法稽古(けいこ)の場面のあと、花やかに武装した牛若丸が登場。本体を現した大天狗(後シテ)は、中国の張良の故事を物語り、平家討滅を予言して終わる。能の豪快な演技、演出が可能とした一つの世界であり、古来の人気曲である。最初に出る大ぜいの花見の稚児で初舞台を踏むのが、能役者の家の子のしきたりである。
[増田正造]
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…片岡千恵蔵と共にマキノプロに入社。当時の名まえは嵐長三郎(ほぼ1年後,独立して寛寿郎を名のる)で,1927年《鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子》でデビュー。黒紋付の着流しと三角覆面の鞍馬天狗=〈天狗のおじさん〉が誕生した。…
…1917年,高校在学中に《一高ロマンス》を出版,大学卒業前後にロマン・ロランの反戦文学作品を3冊翻訳出版するなど,青年時代から文学活動を始めた。関東大震災を契機として勤務先の外務省を退いて作家生活に入り,24年に大衆文芸誌《ポケット》に連載を始めた《鞍馬天狗》によって認められた。このあと,《照る日くもる日》(1926‐27),《赤穂浪士》(1927‐28),《ごろつき船》などの新聞小説が続いた。…
※「鞍馬天狗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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