宝塚歌劇団(読み)タカラヅカカゲキダン

共同通信ニュース用語解説 「宝塚歌劇団」の解説

宝塚歌劇団

阪急電鉄の創業者小林一三こばやし・いちぞうが設立し、1914年に初公演。「清く正しく美しく」がモットーで、約400人いる俳優は「生徒」と呼ばれ、未婚の女性だけで構成する。花、月、雪、星の各組に加え、98年にそら組が誕生して5組体制に。各組にトップスターがいる。東京と本拠地の兵庫県宝塚市に専用劇場を持ち、通年公演している。

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精選版 日本国語大辞典 「宝塚歌劇団」の意味・読み・例文・類語

たからづか‐かげきだん【宝塚歌劇団】

  1. 兵庫県宝塚市に大正三年(一九一四)設立された日本最初の女性だけの歌劇団。宝塚少女歌劇養成会宝塚少女歌劇団を経て昭和一五年(一九四〇宝塚歌劇団と改称。宝塚大劇場および付属の宝塚音楽学校があり、雪組、月組、花組、星組、宙(そら)組によるその公演は人気を集めている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝塚歌劇団」の意味・わかりやすい解説

宝塚歌劇団
たからづかかげきだん

日本の代表的な女性だけの歌劇団。兵庫県宝塚市に本拠を置く。箕面有馬(みのおありま)電気軌道(現、阪急電鉄)が開発した遊園地の中の宝塚新温泉に、1913年(大正2)7月、湯客向けのアトラクションとしてつくった宝塚唱歌隊がその前身で、これは当時東京の三越(みつこし)デパートにあった少年音楽隊に倣ったものであった。同年12月に唱歌隊の名を廃し宝塚少女歌劇養成会として発足、翌1914年4月室内プールを改造したパラダイス劇場で「宝塚少女歌劇」第1回公演として歌劇『ドンブラコ』ほかを上演した。出演者は高峰妙子(たえこ)(1900―1980)、雲井浪子(くもいなみこ)(1901―2003)ら16名で、創始者小林一三(いちぞう)の発案で芸名は小倉(おぐら)百人一首からとった。

 その後、大阪、神戸にも出張公演を行い、1918年5月には東上して帝国劇場でも公演、成功を収めた。同年12月、従来の養成会にかえて宝塚音楽歌劇学校を発足させ、寄宿舎制をとったが、生徒たちの緑の袴(はかま)姿は全国の少女たちのあこがれの的となった。また生徒数の増加に伴い1921年には花組と月組が、さらに1924年宝塚大劇場竣工(しゅんこう)を機に雪組が生まれた(星組は1933年、宙組(そらぐみ)は1998年に発足)。

 初期のスタッフには小林一三はじめ久松一声(いっせい)(1874―1943)、坪内士行(しこう)(1887―1986)、楳茂都陸平(うめもとりくへい)(1896―1985)らがいたが、のち岸田辰弥(たつや)(1892―1944)、白井鉄造らが台頭、ことに1927年(昭和2)フランスより新帰朝の岸田作・演出によるレビュー『モン・パリ』は未曽有(みぞう)の成功を収め、日本における本格的レビューの先鞭(せんべん)をつけた。続いて白井の『パリゼット』(1930)、『花詩集』(1933)がそれぞれ好評を得、とくに『パリゼット』の挿入歌「すみれの花咲く頃(ころ)」はあまねく人口に膾炙(かいしゃ)し、熱狂的宝塚ファンも生まれた。また1934年には東京・日比谷(ひびや)に東京宝塚劇場が建設され、東京公演の砦(とりで)となった。1938年にヨーロッパ、1939年にはアメリカへ初遠征。1940年に「少女」を外して宝塚歌劇団としたが、戦時色が強まるにつれ活動は制限され、もっぱら工場や軍の慰問に駆り出された。天津乙女(あまつおとめ)、小夜福子(さよふくこ)(1909―1989)、葦原邦子(あしはらくにこ)(1912―1997)、春日野八千代(かすがのやちよ)(1915―2012)らがこのころまでのスターである。

 第二次世界大戦後は菊田一夫(かずお)、長谷川(はせがわ)一夫など劇団外からもスタッフを招き、またブロードウェー・ミュージカルに挑戦するなど新路線も示した。その間、『虞美人(ぐびじん)』(1951)、『ベルサイユのばら』(1974)、『風と共に去りぬ』(1977)などがヒット、越路吹雪(こしじふぶき)、淀(よど)かほる(1930―1993)、上月晃(こうづきのぼる)(1940―1999)、汀(みぎわ)夏子(1945― )、鳳蘭(おおとりらん)(1946― )、大地真央(だいちまお)(1956― )、黒木瞳(ひとみ)(1960― )、一路真輝(いちろまき)(1965― )、純名里沙(じゅんなりさ)(1971― )ら多くのスターが生まれた。松竹歌劇団など他のレビューが不振ななか、名実ともに日本を代表する歌劇団として創立以来のモットー「清く正しく美しく」を掲げ、活動を続けている。映画界など他の分野で活躍している出身者も多い。

[向井爽也]

『高木史朗著『宝塚への招待』(1976・広済堂出版)』『宝塚歌劇団編・刊『宝塚歌劇の70年』(1984)』

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百科事典マイペディア 「宝塚歌劇団」の意味・わかりやすい解説

宝塚歌劇団【たからづかかげきだん】

阪急電鉄経営の少女歌劇団。宝塚温泉の余興用に1913年小林一三が少女唱歌隊を組織したのが最初。1918年東京でも公演,翌年には宝塚音楽歌劇学校と改称した。日本初の本格的レビュー《モン・パリ》(1927年)など新感覚の舞台によって隆盛を続け,〈清く正しく美しく〉をモットーに華やかな貴族趣味の世界を展開。1974年には池田理代子原作の《ベルサイユのばら》が大ヒットし,社会的にも話題となった。多くの舞台・映画女優を輩出している。
→関連項目淡島千景岩谷時子松竹歌劇団宝塚[市]坪内士行

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宝塚歌劇団」の意味・わかりやすい解説

宝塚歌劇団
たからづかかげきだん

1913年に創設された女性だけの歌劇団。現阪急電鉄経営の,兵庫県宝塚新温泉への旅客誘引策の一つとして小林一三によって始められ,当初「宝塚少女歌劇団」といった。高木和夫,坪内士行,岸田辰弥らを指導者として音楽劇を上演。特に 27年のフランス風レビュー『モン・パリ』は,白井鉄造振付による近代感覚に満ちたテンポの速い舞台で成功を収め,日本のレビューのさきがけとなった。 40年に「宝塚歌劇団」と改称。第2次世界大戦後は,74年初演の『ベルサイユのばら』で熱狂的ブームを巻起した。特色である男役のスターをはじめ,多くの女優を送り出している。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宝塚歌劇団」の解説

宝塚歌劇団
たからづかかげきだん

レビューやミュージカルを女性のみで上演する歌劇団。阪急電鉄の小林一三(いちぞう)が,1913年(大正2)兵庫県宝塚町(現,宝塚市)に少女の唱歌隊を結成したのが始まり。19年には宝塚音楽歌劇学校を設立して生徒を養成。昭和期に岸田辰弥作「モンパリ」,白井鉄造作「パリゼット」などレビューの傑作をうみ,葦原(あしはら)邦子・天津乙女(あまつおとめ)・小夜(さよ)福子ら多くのスターを輩出。少女たちの憧れを集める甘美な演劇様式をつくりあげ,少女歌劇ともよばれて現在も人気を継続している。

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改訂新版 世界大百科事典 「宝塚歌劇団」の意味・わかりやすい解説

宝塚歌劇団 (たからづかかげきだん)

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世界大百科事典(旧版)内の宝塚歌劇団の言及

【少女歌劇】より

…若い女性だけのチームによって,ショーやオペレッタ風の音楽劇を演じる日本独特の大衆的な演劇形式。現在は名称から〈少女〉の字をはずしているが,〈宝塚歌劇団〉〈松竹歌劇団〉の2劇団がある。
[宝塚歌劇団]
 1912年に白木屋呉服店が西野恵之助の提唱で少女歌劇団を結成,同店演芸場で歌劇《羽子板》を上演したのが少女歌劇のはじめといわれる。…

【宝塚[市]】より

…経営者小林一三は,乗客誘致策として宝塚に温泉と劇場を開設した。大正初期に宝塚少女唱歌隊(現,宝塚歌劇団)が誕生すると非常な人気を呼んだため,4000人収容の大劇場や宝塚音楽学校が次々に建設された。現在は植物園,動物園,遊園地,大温泉を併設する宝塚ファミリーランドに発展した。…

※「宝塚歌劇団」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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