天神堂村(読み)てんじんどうむら

日本歴史地名大系 「天神堂村」の解説

天神堂村
てんじんどうむら

[現在地名]三川町神花かんばな

あか川左岸の自然堤防上に位置し、西は尾花おばな村、南は青山あおやま村、北は猪子いのこ村、東は赤川を隔て押切新田おしきりしんでん村。村名は鎮守天神堂(現天満宮)にちなむ。所属組、領主の変遷は東沼ひがしぬま村と同じ。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二〇四石余。寛永元年庄内高辻帳では高四三二石余。元禄(一六八八―一七〇四)初年には田二六町八反余・畑一七町四反余(うち屋敷一町二反余)と、畑が比較的多かった(「傷寒鶏肋篇」五十嵐文書)。赤川の洪水による川欠けが多く、嘉永二年(一八四九)には五三石余が永引となっている(「御用留」斎藤文書)。租率・年貢取米は慶安元年(一六四八)毛付免五ツ五分、二三一石余、元禄初年の高免四ツ二分二厘余、一五五石余、享保一四年(一七二九)の年貢割付状では定免で二一一石余(傷寒鶏肋篇)、明和(一七六四―七二)初年の毛付免四ツ六分余、二〇八石余(「玉塵集」八幡文書)、嘉永四年の検見取で一九七石余、慶応元年(一八六五)に定免四ツ四分五厘となった(「御用留」斎藤文書)


天神堂村
てんじんどうむら

[現在地名]平田町天神堂

泉興屋いずみこうや村の西にあり、北は石橋いしばし村。大坪おおつぼには平安―室町期の集落跡天神堂遺跡がある。村名は、砂越さごし城落城後、老臣伊藤某が城の土中から天満宮の神体を発見し、村創立の産土としたことに由来する。天正一九年(一五九一)大町おおまち堰開削の後に成立。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に天神道興野村とあり高五九石余。


天神堂村
てんじんどうむら

[現在地名]仙南村天神堂

丸子まるこ川とくりや川の複合扇状地上にあり、北は逆高野さかさこうや村、南は境田さかいだ村、西は岩野町いわのまち村に接する。村名の由来をなすと思われる菅原神社境内に永徳二年(一三八二)の板碑があり、村内にはほかに紀年不明の四基の板碑がある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三五八石とある。慶安元年(一六四八)には家数二二軒、肝煎一人、百姓一九人、水呑一人とある(仙南村郷土史)。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に家数七軒で、支郷は扇田村・間谷地村・松野木まつのき村・小荒田こあらた村・四ッ屋村・耳取みみどり村・小出こいで村の七ヵ村、家数一七軒とある。


天神堂村
てんじんどうむら

[現在地名]水原町天神堂

東は千原新ちわらしん村、西は水原村正保国絵図に村上藩領として村名が載り、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高三七九石七斗余とある。宝永四年(一七〇七)頃の山崎組御巡見御案内帳(渡辺家文書)によれば高五一九石余・田畑総反別四二町余で、戸口は三五軒、男一一三・女一〇二。年貢のほかに七斗六升の山手船頭米、一斗二升余の請酒役米(一軒)、二斗の蒸炉役米などを負担している。


天神堂村
てんじんどうむら

[現在地名]飯山市大字天神堂

東はたる川を隔ててなか村・小見おみ(ともに現下高井郡木島平村)に、西は坂井さかい村、北は小沼おぬま村に接する。

慶長七年(一六〇二)の森忠政検地の頃はまだ現れないが、飯山城主堀直寄によって下木島の内に天神堂新田開拓が慶長一六年頃より進められ、元和元年(一六一五)の「在々置目」をみると、本村並びに野坂田のさかだ新田の普請は百姓迷惑のため翌二年より用捨の旨をあげている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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