水原村
すいばらむら
[現在地名]水原町北本町・中央町一丁目・日の出町・水原
東は外城村、南は下条村・中島村、西は山口村。寛喜元年(一二二九)八月一一日の大見実景譲状写(大見水原氏文書)に「白河庄之内水原条」とみえ、実景が水原条を子行定に、弘安六年(一二八三)四月五日には行定が子息平家綱に譲っている(同一〇年一〇月八日「関東下知状」同文書)。文安二年(一四四五)所領内に関する統治裁判権が水原秀家に対して安堵され(四月二八日「上杉家老臣連署奉書」同文書)、文亀三年(一五〇三)五月二六日にも水原伊勢守憲家に対し守護より確認されている(「上杉家老臣連署奉書」同文書)。明応六年(一四九七)一二月一三日、水原憲家は同又三郎景家を名代として水原条などを譲与している。この時の水原氏の所領は白河庄内水原条并船江条、山浦一分方、豊田庄本田村(現豊浦町)、黒川知行内所々(新御恩)、津波目分(新御恩)から構成されていた(「水原憲家譲状」同文書)。天正六年(一五七八)の御館の乱において、上杉景虎側についた蘆名盛氏の家臣小田切弾正忠は村上国清の家臣と申合せ、下条・水原へ侵入した(九月一四日「上杉景虎書状」長野県立図書館蔵)。同一〇年四月上杉景勝より離反した新発田重家は水原・下条、篠岡(現笹神村)などに侵入して蓼沼友重らに撃退されたが(四月六日「上杉景勝書状」蓼沼文書)、一〇月には水原氏譜代の家老二平氏が、景勝より城を預かっていた荻田与三右衛門を殺し、新発田側についた(景勝一代略記)。しかし同一二年の新発田攻めにおいて、上杉方は五月一三日水原を奪還している(「安国寺建松書状」伊佐早謙氏所蔵文書)。
水原村
みずはらむら
[現在地名]若宮町水原
沼口村の東、山口川と犬鳴川の合流点一帯に形成された盆地の北東部に位置する。集落は本村および堀切・片熊・鷺田の四ヵ所。かつて人家の大部分は産土神若宮八幡宮の周辺にあったが、田地に費えがあるとして寛文一〇年(一六七〇)に四集落になったという(続風土記・続風土記拾遺)。当地には中世若宮庄の鎮守若宮八幡宮が鎮座し、同庄の中心地であった。弘安八年(一二八五)三月日の水原若宮社村々相撲次第(町村書上帳/鎌倉遺文二〇)によると、若宮八幡宮相撲出仕役の九番に「古物 水原 片隈」がみえる。
水原村
みわらむら
[現在地名]瑞穂町字水原
鎌谷の水を集めた土師川に井尻川が合流する辺りを占める。村内を福知山―京街道が井尻川や土師川を左右に見ながら横断し、北部には五条山(五六八・五メートル)を最高峰とする山地が連なる。この地域の中心的村落で、集落は街道の北側土師川沿いにある。東は坂井村、南は下村、西は上大久保村、北は五条山を越えて猪鼻村。貝原益軒の「西北紀行」には大朴村と大久保村の間に「水原」と記す。
水原村
みずわらむら
[現在地名]椎田町水原
坂本村の南に位置し、岩丸川と極楽寺川に挟まれた平坦地および丘陵上に立地する。元和八年人畜改帳・正保国絵図・天保郷帳には村名がみえず、奈古村に含まれたと思われる。「築上郡志」によると、宝暦三年(一七五三)の水原村の高三三九石余、物成高一三三石余。
水原村
みずはらむら
[現在地名]潮来町水原
北浦の西岸にあり、北は釜谷村。水原の名は応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)に「水はらの津小栗へちこ知行ふなつ」とみえる。慶長九年(一六〇四)新庄氏の入封以来廃藩まで麻生藩領で、元禄郷帳の村高は五二五石余、幕末は七八二石余(各村旧高簿)。文化二年(一八〇五)の家数は一二七(三好家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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