天野貞祐(読み)アマノテイユウ

デジタル大辞泉 「天野貞祐」の意味・読み・例文・類語

あまの‐ていゆう〔‐テイイウ〕【天野貞祐】

[1884~1980]哲学者教育者神奈川の生まれ。京大教授。一高校長・文相などを歴任。カントの「純粋理性批判」を訳す。著「道理の感覚」など。

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精選版 日本国語大辞典 「天野貞祐」の意味・読み・例文・類語

あまの‐ていゆう【天野貞祐】

  1. 哲学者、教育家文博。神奈川県出身。京都帝大卒業。のち、同大学教授。カント哲学を研究し、「純粋理性批判」を翻訳。「道理の感覚」などを著わす。甲南高校・一高校長、第三次吉田内閣の文相、日本育英会会長などを歴任。のち独協大学学長。明治一七~昭和五五年(一八八四‐一九八〇

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「天野貞祐」の解説

天野 貞祐
アマノ テイユウ


専攻分野
カント哲学

肩書
元・文相,京都大学名誉教授,独協学園園長

生年月日
明治17年9月30日

出生地
神奈川県津久井郡鳥屋村

学歴
京都帝国大学文科大学哲学科〔明治45年〕卒

学位
文学博士〔昭和6年〕

経歴
大正3年七高に赴任し、8年学習院教授に就任。12〜13年にかけてドイツに留学し、15年京都帝大助教授に就任、昭和6年教授となる。19年退官。その間カント「純粋理性批判」の翻訳などをし、12年「道理の感覚」を刊行戦後21〜23年一高校長をつとめ、一高・東大合併の決議の際に辞職。23年京大名誉教授。日本育英会会長を経て、25年第3次吉田改造内閣の文部大臣に就任。28年母校独協学園校長となり、39年独協大学を創立して初代学長となる。この間、教育刷新委員会委員、中央教育審議会会長、自由学園理事長、国立教育会館初代館長などをつとめ、48年日本学生野球協会会長として野球殿堂入りも果たす。36年文化功労者となり、46年NHK放送文化賞を受賞した。著書専門のカント研究書のほか、「学生に与うる書」「若き女性のために」「如何に生くべきか」などの啓蒙書も多く、「天野貞祐全集」(全9巻・栗田出版会)がある。

受賞
文化功労者〔昭和36年〕 NHK放送文化賞〔昭和46年〕 勲一等旭日大綬章〔昭和48年〕

没年月日
昭和55年3月6日

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20世紀日本人名事典 「天野貞祐」の解説

天野 貞祐
アマノ テイユウ

大正・昭和期の哲学者,教育家 元・文相;京都大学名誉教授;独協学園園長。



生年
明治17(1884)年9月30日

没年
昭和55(1980)年3月6日

出生地
神奈川県津久井郡鳥屋村

学歴〔年〕
京都帝国大学文科大学哲学科〔明治45年〕卒

学位〔年〕
文学博士〔昭和6年〕

主な受賞名〔年〕
文化功労者〔昭和36年〕,NHK放送文化賞〔昭和46年〕,勲一等旭日大綬章〔昭和48年〕

経歴
大正3年七高に赴任し、8年学習院教授に就任。12〜13年にかけてドイツに留学し、15年京都帝大助教授に就任、昭和6年教授となる。19年退官。その間カント「純粋理性批判」の翻訳などをし、12年「道理の感覚」を刊行。戦後21〜23年一高校長をつとめ、一高・東大合併の決議の際に辞職。23年京大名誉教授。日本育英会会長を経て、25年第3次吉田改造内閣の文部大臣に就任。28年母校独協学園校長となり、39年独協大学を創立して初代学長となる。この間、教育刷新委員会委員、中央教育審議会会長、自由学園理事長、国立教育会館初代館長などをつとめ、48年日本学生野球協会会長として野球殿堂入りも果たす。36年文化功労者となり、46年NHK放送文化賞を受賞した。著書に専門のカント研究書のほか、「学生に与うる書」「若き女性のために」「如何に生くべきか」などの啓蒙書も多く、「天野貞祐全集」(全9巻・栗田出版会)がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天野貞祐」の意味・わかりやすい解説

天野貞祐
あまのていゆう
(1884―1980)

哲学者、教育者。神奈川県に生まれる。1912年(明治45)京都帝国大学文科大学卒業。第七高等学校、学習院教授などを経て、1931年(昭和6)京都帝大教授。専攻はカント哲学。人生論、教育論、学生論も多い。1944年同校を退職してのち、甲南高等学校校長。第二次世界大戦後、第一高等学校校長となる。教育刷新委員会委員として教育基本法制定にもかかわった。1950年(昭和25)5月から第三次吉田茂内閣の文相となり、道徳教育の重要性を強調、自ら「国民実践要領」を草し、不評を買った。のち1953年獨協(どっきょう)学園園長、1955年から1963年まで文部省中央教育審議会会長。1961年度文化功労者。

[尾崎ムゲン 2016年8月19日]

『天野貞祐著『忘れえぬ人々 自伝的回想』(1953・河出書房)』『『天野貞祐全集』全9巻(1970〜1972・栗田出版会/復刻版・1999・日本図書センター)』


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改訂新版 世界大百科事典 「天野貞祐」の意味・わかりやすい解説

天野貞祐 (あまのていゆう)
生没年:1884-1980(明治17-昭和55)

哲学者。神奈川県に生まれ,一高を経て,1912年京都大学哲学科を卒業。専攻はカント哲学であるが,教育者を志望し14年七高ドイツ語教師。学習院教授,ドイツ留学を経て,26年京大助教授,31年教授。第2次大戦後一高校長に就任したが,旧制高校の教育的役割を高く評価し,新学制による同校の東京大学への併合に反対して辞任した。教育刷新委員会委員,文部大臣(1950-52),中央教育審議会会長,独協大学学長などを歴任。文相として〈静かな愛国心〉をとなえ,51年〈国民実践要領〉を発表,道徳教育の必要を強調し世論の批判をあびた。《天野貞祐全集》全9巻(1970-72)がある。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天野貞祐」の意味・わかりやすい解説

天野貞祐
あまのていゆう

[生]1884.9.30. 神奈川
[没]1980.3.6. 東京
哲学者,教育者。 1912年京都大学を卒業,第七高等学校,学習院,京都大学 (1931~44) の教授を歴任し,第4次吉田内閣の文部大臣 (50~52) をつとめた。以後没年まで独協学園長 (64~69,独協大学学長) であった。カントを専攻し『純粋理性批判』の翻訳 (3巻,21~31) や『道理の感覚』 (37) など多数の著訳書は『天野貞祐全集』 (9巻,70~72) に収められている。教育刷新委員会,中央教育審議会委員さらに文相として,第2次世界大戦後の日本の教育政策に大きな影響を及ぼした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天野貞祐」の解説

天野貞祐 あまの-ていゆう

1884-1980 大正-昭和時代の哲学者。
明治17年9月30日生まれ。カント哲学を専攻し,昭和6年母校京都帝大の教授。戦後は一高校長ののち,25年第3次吉田内閣の文相となる。六三制義務教育の充実,給食制度の推進につとめたが,道徳教育を強調し,「国民実践要領」を提案して批判をうける。36年文化功労者。39年独協大初代学長。昭和55年3月6日死去。95歳。神奈川県出身。著作に「道理の感覚」など。
【格言など】道徳的なるものこそ一切の力の源泉である。一切の存在の根源である(「道理の感覚」)

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367日誕生日大事典 「天野貞祐」の解説

天野 貞祐 (あまの ていゆう)

生年月日:1884年9月30日
昭和時代の哲学者;教育家
1980年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の天野貞祐の言及

【教育勅語】より

…このような公式決議にもかかわらず,教育勅語復活を待望する声は根強く残った。51年文相天野貞祐は〈国民実践要領〉を発表した。これは教育勅語の復活ではないが,政府から道徳基準を示す方式であった。…

【独協大学】より

…1937年独逸学協会中学校と改称,第2次大戦後の47年独協学園と改称し,48年には新制の高等学校・中学校が認可された。52年哲学者天野貞祐を校長として再興をはかり,64年独協大学を開設した。73年には兄弟校として,栃木県下都賀(しもつが)郡壬生(みぶ)町に独協医科大学を開設,77年に大学院を設置する。…

※「天野貞祐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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