福地源一郎(読み)フクチ ゲンイチロウ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「福地源一郎」の解説

福地 源一郎
フクチ ゲンイチロウ


肩書
衆院議員(無所属),東京日日新聞社長

別名
号=福地桜痴 福地星泓 福地吾曹子 夢之舎主人 幼名=八十吉 諱=万世 字=尚甫

生年月日
天保12年3月23日(1841年)

出生地
肥前国長崎(長崎県長崎市)

経歴
15歳の時オランダ通詞名村花蹊に蘭学を学び、安政5年江戸に出て英学を学んだ。また幕府に出仕して通訳、翻訳の仕事に従事。文久元年と慶応元年に幕府使節の一員として渡欧。明治元年条野採菊と共に佐幕派の新聞「江湖新聞」を発刊したが、新政府から逮捕、発禁処分を受けた。3年渋沢栄一の紹介で伊藤博文と会い意気投合、渡米する伊藤に随行。同年大蔵省御雇となり、4年には岩倉具視の率いる米欧巡遊に一等書記官として参加。7年条野採菊が創刊した「東京日日新聞」主筆に迎えられ、政府擁護の立場で自由民権派批判の筆をふるった。御用新聞の悪評もあったが、社説は好評だった。9年社長。11年東京府議に当選、12年議長に就任。15年水野寅次郎らと立憲帝政党を組織、北海道開拓使払い下げ問題で、21年東日社長を引退した。その後は演劇に深く関心、22年歌舞伎改良を提唱して歌舞伎座を建設、座主となる。9代目市川団十郎投合、改良史劇を続々発表、人気一等となった。傍ら史書著述に専念。団十郎の死で劇壇を退き、その後政界に転じ、37年衆議院議員に当選した。著書は「幕府衰亡論」「懐往事談」「幕末政治家」などの歴史物から小説「もしや草紙」「嘘八百」「伏魔殿」「大策士」「山県大弐」「水野閣老」、劇作春日局」「俠客春雨傘」「大森彦七」「芳哉義士誉」など多数。

没年月日
明治39年1月4日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「福地源一郎」の解説

福地源一郎

没年:明治39.1.4(1906)
生年:天保12.3.23(1841.5.13)
明治時代前期の代表的ジャーナリスト。号は桜痴。長崎の医師源輔(号は苟庵),松子の長男。幼名は八十吉。長崎で蘭学を学び,安政5(1858)年末に江戸に上る。翌年英学を学び,幕府に通弁として出仕する。文久1(1861)年と慶応1(1865)年に幕府使節の一員として渡欧を体験。明治1(1868)年『江湖新聞』を発行し,幕府擁護の論陣を張ったため明治政府に逮捕された。しかし,木戸孝允の働きで無罪放免され,その後才能を認められ,3年より大蔵省に出仕する。官吏時代,岩倉遣外使節団に随行するなどして2度の洋行を経験。 7年『東京日日新聞』に入社し,主筆となった。「吾曹」の名称のもとに,巧みな比喩と達意の文章で数多くの論説および社説を書き活躍した。福地の社説と岸田吟香の雑報欄の記事は,同紙の看板であった。9年社長になり,翌年の西南戦争に従軍記者として参加し,戦況報道「戦報採録」を送った。福地は,急進主義を排し漸進主義を信条とする現実主義者であった。「太政官記事印行御用」を売り物にしていたが,常に政府を擁護したわけではなく,14年の北海道開拓使官有物払下事件では政府を攻撃している。11年暮れに東京府会議員に当選し,翌年には府会議長に選ばれた。15年には,丸山作楽,水野寅次郎らと主権在君を掲げる立憲帝政党を設立したが,御用政党と評され振るわなかった。そして,政府が16年に『官報』を創設すると,「太政官御用」を売り物にしていた『東京日日新聞』は経営が悪化し,17年に主筆を関直彦に譲り,21年には同紙から引退した。その後は,演劇改良運動に熱中し,歌舞伎座の創設(1889)にも尽力した。9代目市川団十郎の座付作者として,歌舞伎の台本「春日局」なども執筆した。歴史書に『幕府衰亡論』(1892)や『幕末政治家』(1900),自伝をかねた『懐往事談』(1894)がある。<参考文献>小山文雄『明治の異才福地桜痴』

(小宮一夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「福地源一郎」の意味・わかりやすい解説

福地源一郎
ふくちげんいちろう

[生]天保12(1841).3.23. 長崎
[没]1906.1.4. 東京
新聞記者,政治家,劇作家。号は桜痴。医家に生まれ,幼時に蘭学を学び,安政5 (1858) 年江戸に出て徳川家に仕えたのち,幕府の通詞として使節に随行して渡欧。慶応4 (1868) 年『江湖新聞』を発行。発行停止処分を受けて一時役人になったが,1874年 12月『東京日日新聞』に入社し,1876年社長に就任。明治政府の方針を反映した署名入りの社説は言論界,実業界,政界に影響力をもち,1879年東京府会議長に推され,1882年立憲帝政党を組織した。一方,前後4回に及ぶ外遊の見聞から演劇改良運動に心を寄せ,1888年同新聞社を去ってからその運動に専念。翌年千葉勝五郎と歌舞伎座を建設,9世市川団十郎の顧問,作者となって活歴 (かつれき) の上演に力を尽くした。史劇『春日局』,世話物『侠客春雨傘』,舞踊劇『春興鏡獅子』などのほか,古典の改修,翻案物を含めて 50編余の作品がある。 1903年団十郎没後は劇界での勢力も衰え,小説に筆を染め,また一時衆議院議員になった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「福地源一郎」の解説

福地源一郎
ふくちげんいちろう

1841.3.23~1906.1.4

明治期のジャーナリスト。肥前国長崎生れ。号は桜痴(おうち)。漢・蘭・英学を修め,1859年(安政6)幕府に出仕。翌年遣米使節,以後2度遣欧使節に随行。68年(明治元)「江湖新聞」を発行,新政府批判で逮捕されるが,木戸孝允(たかよし)の尽力で放免された。70年大蔵省出仕,翌年岩倉遣欧使節に随行。74年「東京日日新聞」に入り,82年立憲帝政党を組織,88年まで新聞を主宰。以後は寄稿のほか政治小説や歌舞伎脚本も執筆。歌舞伎座建設にたずさわり,9世市川団十郎とともに演劇改良(活劇)に尽力。代表作「幕府衰亡論」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「福地源一郎」の解説

福地源一郎
ふくちげんいちろう

1841〜1906
明治時代の政治評論家・文学者
号は桜痴 (おうち) 。肥前(長崎県)の生まれ。幕府の通訳として渡欧し,新聞の政治的影響力を実感。1870年大蔵省に出仕し,翌年より岩倉遣外使節に随行。'74年『東京日日新聞』主筆となり,政府系の論陣を張り,主権在君論の立場で自由民権派と論争,'82年立憲帝政党を結成した。また戯曲・小説も書いた。代表作に『幕府衰亡論』。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「福地源一郎」の解説

福地源一郎 ふくち-げんいちろう

福地桜痴(ふくち-おうち)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「福地源一郎」の解説

福地 源一郎 (ふくち げんいちろう)

生年月日:1841年3月23日
明治時代の新聞人;劇作家。東京日日新聞社長;衆議院議員
1906年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

百科事典マイペディア 「福地源一郎」の意味・わかりやすい解説

福地源一郎【ふくちげんいちろう】

福地桜痴

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「福地源一郎」の意味・わかりやすい解説

福地源一郎
ふくちげんいちろう

福地桜痴

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の福地源一郎の言及

【興行】より

…12世守田勘弥が,守(森)田座を猿若町から新富町に移転して新富座を新築し,観客席の一部を椅子席として観劇の仕組を改革したり,また植村文楽軒の操芝居が,大阪博労町の稲荷社境内から松島に移って,文楽座と名のって興行をしたのが,ともに明治5年のことである。99年11月に,福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎らによって木挽町に歌舞伎座(1824席)が開場した。演技空間の拡大とともに,観客席が著しく増大したことは,興行の営利を追求する意図の反映と考えられよう。…

【社説】より

…新聞が自社の意見として掲載する論説。通常,論説委員会で論議のうえ,そのテーマの分野を担当する委員が執筆する。イギリスでは1695年特許検閲法の廃止によって数多くの新聞が創刊された。ホイッグ,トーリーの二大政党の対立を背景にD.デフォーの《レビュー》(1704‐13),J.スウィフトが半年間論説を担当した《エグザミナー》(1710‐12),J.アディソンの《スペクテーター》(1711‐12)などが解説,論説を載せて評論新聞essay paperと呼ばれた。…

【従軍記者】より

…その戦記は読者に喜ばれ,錦絵にもなった。77年の西南戦争には《東京日日新聞》の福地源一郎,《郵便報知新聞》の犬養毅ら4人の記者が従軍したが,このときも記者としての従軍は認められず,福地は参軍本営記室つまり軍の記録係としての従軍であった。朝鮮における1882年の壬午軍乱,84年の甲申政変にも有力紙は特派員を送ったが,軍が正式に従軍記者を認めたのは94‐95年の日清戦争からである。…

【福地桜痴】より

…明治時代のジャーナリスト。通称源一郎,桜痴は号。長崎に生まれた。父苟庵(こうあん)は医者。1856年(安政3)オランダ大通辞の名村花蹊に入門,才知抜群の誉れ高く,請われて名村家の養子となったが,同僚塾生から排斥され,58年,江戸に出た。森山多吉郎に英学を学び,59年より通辞として江戸幕府に出仕した。61年(文久1),65年(慶応1)の2度にわたり,遣欧使節に従ってヨーロッパを見学した。ヨーロッパ文明に傾倒し,幕政改革を画策したが不首尾に終わり,江左風流第一才子と自称して,遊蕩にはげんだ。…

※「福地源一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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