日本歴史地名大系 「奈良村」の解説 奈良村ならむら 神奈川県:横浜市緑区奈良村[現在地名]緑区奈良町・緑山(みどりやま)・すみよし台(だい)北は岡上(おかのぼり)村(現川崎市麻生区)・多摩(たま)郡三輪(みわ)村(現東京都町田市)、東は鴨志田(かもしだ)村、南は恩田(おんだ)村、西はいずれも多摩郡で金井(かない)村・本町田(ほんまちだ)村・成瀬(なるせ)村(現町田市)と接する。字本山(ほんざん)の溜井本山池より流れ出る奈良川およびその支流が谷戸地形をつくる。奈良川は恩田村で恩田川に合流する。字地書上によると、明治初期の小名二五には「谷」字のつくもの一五ヵ所を数え、改正後の字名は神戸谷(ごうどやと)・油戸谷(あぶらどやと)・大畑谷(おおはたやと)・駒狩谷(こまがりやと)・地蔵堂谷(じぞうどうやと)・長谷(ながやと)・熊(くま)ヶ谷(やと)・宮(みや)ノ谷(やと)など一一ヵ所がある。小田原衆所領役帳に福島四郎右衛門「卅七貫弐百八拾弐文 小机奈良岡上」とある。 奈良村ならむら 大阪府:茨木市奈良村[現在地名]茨木市奈良町・岩倉(いわくら)町・新中条(しんちゆうじよう)町・小川(おがわ)町・若草(わかくさ)町・天王(てんのう)一―二丁目・沢良宜西(さわらぎにし)一丁目・東奈良(ひがしなら)一―三丁目・玉水(たまみず)町・玉櫛(たまくし)一丁目・水尾(みずお)一―三丁目下中条(しもちゆうじよう)村の南にあり、北西部を高槻(たかつき)街道が南西―北東方向に通る。地形は平坦で、東辺を茨木川が流れる。一二世紀前期に三善為康が著した「後拾遺往生伝」に、ひたすら念仏を唱え、妻とともに異世間の鐘声を聞くことができたという安倍時延のことがみえ、時延は「摂津国島上郡奈良郷住人也」とある。貞和五年(一三四九)一一月日付の鳥居造立条々注文(勝尾寺文書)に「三斗八升四合 奈良」と記す。 奈良村ならむら 群馬県:沼田市奈良村[現在地名]沼田市奈良町岡谷(おかのや)村の東、南流する発知(ほつち)川の左岸にあり、北西は下発知村、北は大倉蘭(おおくらあららぎ)新田、東は秋塚(あきづか)村に接する。南端を薄根(うすね)川が西流し、対岸南は横塚(よこづか)村。集落は発知川の段丘面上にあり、東西は山陵が連なる。縄文期から古墳期に至る土器・石器などが出土するが、村域の南端には古墳群もあり一説では利根郡男信(なましな)郷(和名抄)に含まれていたとする。奈良用水は寛文二年(一六六二)発知川を発知新田御五位(みごい)淵の上で引上げ、大倉蘭新田の蘭地区を経て当村域まで延長二千二〇〇間を開削したもので(池田村誌)、藩主真田伊賀守信利にちなみ伊賀堀とも称される。 奈良村ならむら 愛媛県:北宇和郡広見町奈良村[現在地名]広見町奈良奈良川流域の谷あいの村。東は中之川(なかのかわ)村、西は北川(きたがわ)村に接する。村の南側には郭公(かつこう)岳(一〇一〇メートル)・高月(たかつき)山(一二二九メートル)などの高山が控えている。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「奈良村 深山続キ柴山有」と村名がみえる。宇和島藩領。太閤検地の石高は四九七石二升七合で、耕地面積の比率は田八七パーセント、畑一三パーセント。寛文検地では石高が一八パーセント増加し、田六六パーセント、畑三四パーセントとなっている。「墅截」によると、村柄は「上」、田が「上ノ中」、畑は「中ノ下」とされ、水掛りは「吉」となっている。 奈良村ならむら 千葉県:市原市奈良村[現在地名]市原市奈良国吉(くによし)村の南に位置する。犬成(いぬなり)村枝郷。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一一〇石。正保国絵図でも同高であるが、元禄郷帳では高一〇九石余で、幕末までほぼ同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二六で、高岡藩領と旗本青木領。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by