妙立寺
みようりゆうじ
[現在地名]宮津市字中野
中野の西部にあり、大乗寺に隣する。栄昌山と号し、日蓮宗、本尊十界大曼荼羅。
創立はつまびらかでないが、一は「与謝郡誌」に記す寺伝の説で、嘉吉三年(一四四三)五月、日養が真言宗万福寺を妙隆寺と号した。当時は身延山久遠寺(現山梨県南巨摩郡身延町)に属したが、のち元和五年(一六一九)京都妙顕寺(現京都市上京区)へ本寺換えをして、妙立寺と改めたという。次に「宮津府志」は現存万福寺額(智恩寺蔵)に「貞和二年七月十二日遊行第七他阿書」とあること、現妙立寺境内番神堂の天文一六年(一五四七)修復棟札(現存せず)の銘に「寺僧一老弥阿弥陀仏久裏阿弥陀仏」とあるところをもって、貞和以前は真言宗、それ以後天文の頃までは遊行派橋立の道場、寛永年中(一六二四―四四)大破の時日受が住して日蓮宗となったとしている。
妙立寺
みようりゆうじ
[現在地名]湖西市吉美
浜名湖に向かって突き出た丘陵の先端にある。延兼山と号し、日蓮宗。本尊は大曼荼羅。寺伝によると、吉美の佐原常慶と内藤金平が日什に帰依し、至徳三年(一三八六)に日什を迎えて、初め古見の小山田に当寺を開創した。永享六年(一四三四)に吉美内川尻の愛河に移転した。川尻移転は応永二一年(一四一四)以前である(本尊銘)。明応八年(一四九九)に飛鳥井雅康は妙立寺に宿泊して「よこ雲の引まの里をへたてきて又たくひなきふしの曙」と詠んでいる(富士歴覧記)。
妙立寺
みようりゆうじ
西は禅定寺、北は旧高麗門から横手村方面への出口の広場、南は妙永寺へ入る小路に接する。光徳山顕応院と号し、日蓮宗、本尊十界大曼荼羅。「国誌」によると天正二年(一五七四)顕応院日祐が豊前国小倉で開基し、寛永九年(一六三二)熊本城下慶徳堀町に妙立寺を建立したが焼失、寛文三年(一六六三)現在地に移築したという。現在地には明暦(一六五五―五八)頃の絵図では「顕応院」「仙人堂」が記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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