改訂新版 世界大百科事典 「妻敵討」の意味・わかりやすい解説
妻敵討 (めがたきうち)
姦通をした姦夫を本夫が殺害すること。中世においては敵討,妻敵討と併称されて盛んに行われた。《御成敗式目》の密懐(びつかい)法(34条)などの姦夫の刑罰では所領没収刑などが規定されているが,一般社会においては,自力救済観念に基づき,本夫が姦夫を討つべしとする社会通念が強く存在し,本夫が妻のもとに通ってくる姦夫を自宅内で現状をおさえ殺害する妻敵討が慣習として定着していた。しかし,この作法に基づかない姦夫殺害は殺害罪として扱われたため,しばしば混乱を引き起こした。1479年(文明11)室町幕府の判例として,新しく姦夫・姦婦殺害の法理が生み出された。この法理は,本夫が姦夫を殺したことに対する復讐を姦夫に代わって本夫が,本夫の身代りである共犯の姦婦を殺害することによって相殺する,という相殺主義に基づいており,当時の人々に支持され,しだいに戦国家法,江戸幕府法に継承されていった。
執筆者:勝俣 鎮夫 江戸時代においては,妻敵討の語は,通常,密通して逃亡した姦夫,もしくは姦夫姦婦を夫が捜し出して斬り殺すことを意味した。幕府は密通した妻とその相手に対する殺害権を,一種の私的刑罰権として夫に認めていた。江戸時代前期の〈江戸町中定〉では,密通の現場で男女ともに殺害する場合にのみ殺害権が認められたが,その後の《公事方御定書(くじかたおさだめがき)》では,密通に相違なければ必ずしも現場においてでなくとも殺害できることになり,妻敵討が庶民法上合法化されることとなった。しかし実際には妻敵討のほとんどは武士によってなされたのであり,近松門左衛門の《堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)》《鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)》に見られるように,御定書以前にも〈武士(もののふ)の身〉の〈習(ならい)〉として,慣習上妻敵討が認められていたと考えられる。妻敵討の手続は通常の敵討に準じ,妻敵討に出立するにあたっては,領主から三奉行へ届け出て帳付けを受けるべきものとされた。妻敵討の幕府への届出は,江戸時代後半を通じて見られたものの,その数は多くはなかった。幕府も妻敵討を,家の恥を公表するものとしてけっして奨励せず,むしろこれを抑制する姿勢を示したし,殺害権を行使するよりは,むしろ姦夫から慰藉料(7両2分もしくは5両が相場)を取って内済(ないさい)するのが上策である,と一般に考えられるに至ったからである。1839年(天保10)大坂における大洲藩士の妻敵討は,もはやまれとなった妻敵討の事例であったが,むしろ世間の物笑いの種となったという。
執筆者:林 由紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報