先例として一般性をもつ裁判。これに対し「判決」とは、ある特定の事件につき裁判所が下した法判断のことをいうから、両者は概念的に区別されなければならない。わが国では、憲法第76条により裁判官は憲法および法律のみに拘束されるから、同種の事件につきある裁判所の法判断(判決)が存在するからといって、他の裁判所はこれに拘束されないのが原則である。ただ、この原則は司法の独立または裁判官の独立を保障するためのものであり、同種の事件につきある裁判所が他の裁判所の判決を参考にしたり、これに従うことを禁止する趣旨でないことはいうまでもない。むしろ、逆に、法的安定性の見地から、同種の事件につき裁判所により法判断が異なることは好ましいことではない。そこで、裁判所は同種の事件につき他の裁判所の法判断がある場合には、これを参照すべきであろうし、現に、この判決が程度の差こそあれ一定の規準として後の判決形成に事実上の影響力をもっている。とりわけ、同趣旨の判決が繰り返されていたり、上級裁判所(とくに最高裁判所)の判決がすでに存在する場合には、これらの判決は先例として後の判決に拘束力をもつといってよい。このことは、判例違背が上告理由とされていたり、最高裁判所が従来の判例を変更する場合には、大法廷を開くべきものという慎重な手続を要求していることなどから判断しても、法制上も認められているといえよう。このような事実上または実定法上の根拠に基づき、「判例」という概念が成り立ちうるのである。
前記のような「判例」は法として法源性をもちうるか。この問題は「法」をどのように理解するか、ということに帰着する。この点につき、英米法系における判例法主義のもとでは、法制上、判例が法源の基本をなし、「判例法」、すなわち判例が法であるという考え方が当然の前提とされているのに対し、大陸法系では、三権分立の原則のもとに立法機関の定める法(法規)のみが法源とされるから、判例の法源性は一般に否定される。ただ、わが国は大陸法系に属するとしても、前述したように、裁判規範のレベルでは、事実上または法制上、判例には規準として一定の拘束力を認めざるをえない。しかも、わが国では、「法の解釈」または「法の適用」という名のもとに、実定法の明文に反するような判例が存在するという事実も否定できない。そうだとすれば、判例法という観念を認めるか否かは別として、法を国家意思の発現として実体的・機能的に理解するならば、実定法研究とともに判例研究の重要性が指摘されなければならない。
[名和鐵郎]
先例としての価値を有する裁判を判例という。類似した事件についてある裁判所が下した判断が同一のまたは他の裁判所が後に判断するに当たって参考になることは当然であり,弁護士や当事者本人が裁判の予測を試みるに際して重要な資料となる。類似の事実関係について類似の判決が出ることは,法の安定のために重要であり,法の下における平等を求める市民的理念や裁判の予測可能性を求める企業的要請にも合致する。
この意味において,近代法の下では,先に行われた裁判は多かれ少なかれ,後に行われる裁判に対して拘束力を持つ。制定法国である日本では判例法国である英米諸国と異なり,判例の拘束力についての議論は少なく,むしろ裁判所法4条は,上級審の裁判といえども当該の事件についてのみ下級審を拘束するにすぎないと明定している。しかし,現実には法律実務家の意識における判例の拘束力は無視すべからざるものがあり,制度上も間接的保障がある(民事訴訟規則48条,刑事訴訟法405条2号)。
他方,制度的に判例の拘束力を認める英米諸国においても,現実には先例が絶対的な拘束力を持っているわけではない。類似の事件といっても幅のある観念であるから,後の事件に前の事件と異なる点があることを強調することにより先例の墨守を回避するテクニックが用いられることも多い。そうでなければ,裁判の進歩性はありえないということになってしまうからである。
要するに,判例の拘束力に関する彼我の建前上のちがいは,現実にはそれほど大きいものではない。
執筆者:古賀 正義
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…日本はヨーロッパ大陸法系に属しており,国民生活のほとんどすべての分野において成文法が存在するが,このように成文法が国法の基本となっている場合には成文法主義と呼ばれる。これに対して英米法系の諸国では裁判所の判例の集積が国法の基幹的部分を構成しており,判例法主義または不文法主義をとっている。不文法のうち重要なものは慣習法と判例法である。…
…日本の法解釈学は,もともと,法解釈や法律学的構成を体系的かつ教義学的に行うことをおもな活動としていたドイツの法律学Jurisprudenzないし法教義学Rechtsdogmatikの圧倒的な影響のもとに発展してきたものである。一般に,ドイツや日本のような成文法主義のもとでは,制定法の解釈や法律学的構成に重点がおかれるのに対して,イギリス,アメリカのような判例法主義のもとでは,過去の判例の整理や将来の判決の予測が中心となるといわれているが,今日ではあまり大きな相違はみられなくなっている。日本の法解釈学も,法解釈だけでなく,法律学的構成,判例の研究や批評など,かなり多面的な活動を行うようになっており,このような多面的な活動を表すのに,法解釈学という名称は必ずしも適切ではなく,むしろ,最近よく用いられている実定法学という名称のほうが適切であろう。…
※「判例」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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