大学事典 「学問の自由と法制度」の解説
学問の自由と法制度
がくもんのじゆうとほうせいど
academic freedom and legal system
[学問の自由をめぐる法規定と歴史]
日本国憲法では19条と21条で「思想及び良心の自由」と「表現の自由」がうたわれているにもかかわらず,23条で「学問の自由」をあえて特記しており,それを受け教育基本法2条でもその尊重が明記されている。国際的には「学問の自由」は上記二つの基本的人権(自由権)の中に含まれると解釈されており,それを憲法上に特記している国はドイツやイタリアなどを例外として稀である。
学問の自由とは一般的には,①研究の自由,②研究発表の自由,③教授(教育)の自由といった学問的活動に対して,外部からの干渉を受けない自由,④大学の自治の自由の四つの内容を含むとされている。①~③は「思想・良心の自由」と「表現の自由」に属する自由であるが,どの国でもとくに「学問の自由」とあえて称するのは,真理の探究を旨とする学問の進歩には健全な批判精神が不可欠であり,公権力を含む外部からの干渉によってその精神が阻害されてはならないとの考えが基本に存在するからである。さらに④は,それらの個人的自由が侵害されないよう大学教員の身分保障を制度的に確保するための自由である。そして④を具体的に保障するため,1947年(昭和22)に公布・施行された学校教育法では59条で,大学には「重要な事項を審議するため」教授会を置くことを義務付けるとともに,49年には教育公務員特例法を制定し国公立大学教員の任免に関する基本手続きが規定されている。
1886年(明治19)の帝国大学令によれば,大学に求められたのはあくまで「国家ノ須要」に応じた学問の教育研究であり,その任を果たすべき教員には他の国家官吏と同様,大日本帝国憲法によってその任免は天皇の大権のもとにおかれ,87年改正の官吏服務紀律により天皇への忠誠を義務付けられ,個人生活に至るまで法的規制が課せられていた。このような制約の下で戦前期には①~③が侵害される事件が数多く起こった。1892年の久米邦武事件,1905年の戸水事件(帝大七博士事件),20年(大正9)の森戸事件,28年(昭和3)の三大学教授追放事件,33年の滝川事件,35年の美濃部達吉に対する天皇機関説事件,37年の矢内原忠雄事件,38年の学者グループ事件(教授グループ事件),同年の河合栄治郎事件,40年の津田左右吉事件などである。
さらに④についていえば,1913年の沢柳事件を契機に14年以降,教授の任免は教授会の議を経ることという教授会自治の慣行が定着していった。しかしそれはあくまで「慣行としての大学自治」に過ぎず,法的裏付けを持つものではなかったため,1914年以降もその原則を侵害する滝川事件,39年に河合事件の処分を裁定・断行した平賀粛清といった事件が起こった。以上のような学問の自由に対する侵害が思想統制を推し進め,軍国主義へ繫がる一因になったとの教訓をもとに成文化されたのが日本国憲法23条である。さらにその精神にのっとり「慣行としての大学自治」から「制度としての大学自治」への昇格を目指して策定された法令が教育公務員特例法である。
[学問の自由の起源と外国におけるその展開]
大学の起源とされる中世大学は,そもそも学びたい人と教えたい人の知的共同体として発生・発展していき,どこの大学でも授業は万国共通語であるラテン語で行われていたのみならず,ヨーロッパ各国から学びにくる外国人学生で満ち溢れているという一種特異な空間であった。このような共同体のなかで,大学の自治の自由を中心とする学問の自由が自然な形で定着していった。大学がいかに特異な空間とみなされていたかは,1850年に制定されたドイツのプロイセン憲法では「学問の自由」の保障が盛り込まれることになったが,その自由とは大学の中だけで許される教育研究の自由であり,大学の外では政治的中立を保つことが要求されたことからも分かる。近代国家の形成は18世紀以降のことになるが,中世大学の起源は11世紀にまで遡ることができ,その伝統は一種の既得権益として無視することのできないものであったため,憲法上それを明文化しなくとも「学問の自由」の伝統は大学の権利とみなされた。
ただしアメリカ合衆国では,私立大学・公立大学とも理事会が教職員の雇用を含む管理権を持っており,極論すれば教員は一定の期間を限って雇用契約を結んでいる雇われ人にすぎないという理事会管理方式が発展していった。そのため教員の身分保障も脆弱で学問の自由が侵害される出来事が頻出した。そこで学問の自由とそれを裏打ちする身分保障の確立を求めて1915年に専門職団体として結成されたのが,アメリカ大学教授連合(American Association of University Professors: AAUP)である。AAUPの活動をとおして,身分保障については終身在職権(テニュアtenure)制度が浸透していくとともに,学問の自由も確保されていくことになった。
[学問の自由に対する争点]
学問の自由については,以下のような争点が残されている。とくに大学の自治の問題については,(1)それへの大学外部からの干渉排除の問題と,(2)その自治の担い手として誰を含むかといった大学内部での問題に分けて考える必要があるとすれば,第1の争点は(2)に関して,(a)そこにどこまで学外者の関与を認めるか,(b)その担い手に学生も含まれるかという問題である。(a)については2003年(平成15)に公布・施行された国立大学法人法によって,その「経営に関する重要事項」の審議ならびに学長選考の権限は,学外委員を2分の1以上の構成員とする経営協議会に委ねられることになった。大学管理制度の問題が大学自治の問題と密接な関係を持つとすれば,このように学外者を大学の管理運営組織の一員とすることには大学の自治の侵犯であるとして歴史的にみると抵抗が強かった。
教育公務員特例法は,教員の身分に関する権限を持つ組織として学外者も構成要員とする,「大学管理機関」の設立を盛り込んだ大学管理法案(大学法試案要項)制定を前提にもともとは策定されたものであった。しかしこの法案は1951年に国会に提出されたものの,そこに学外者を含むことへの反発が強く,結局廃案になったため,「大学管理機関」が発足するまでの暫定処置であったはずの1949年に公布・施行された教育公務員特例法附則の読み替え規定が存続し,教員人事については教授会・評議会が大きな権限を持つという,戦前の教授会自治の思想と制度が新制大学にそのまま継承されることになった。このような形での大学の自治継承の良否については,戦後における大学の自治への干渉として有名なものの一つに1949年のイールズ事件が挙げられるが,教員のレッドパージは高等学校以下の学校では大量に行われたにもかかわらず,大学の被害が少なかったのは,教授会による人事権が残されていたためとの評価もある。
(b)については,1952年の東大ポポロ事件に対する63年の最高裁判決で1審・2審の判決が覆され,大学自治の担い手は基本的には教員のみであり,研究以外の活動については学生はその担い手となりえないとの判断が下された。しかし大学が学びたい人と教えたい人の知的共同体として成立したという,ヨーロッパの中世大学以来の伝統をもとにすれば,問題が残るとの考えもある。
第2の争点は,人体・環境や社会秩序に及ぼす危険性がいまだ予測困難であったり,重大な影響を与えると想定される研究や,「人の尊厳の保持」(生命倫理)にかかわるような研究については,研究の自由に外部から規制を加える必要があるのではないかといった,(1)に関連する問題である。この観点にもとづき,2000年に成立した「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」では,罰則規定も定める形で特定の研究活動を禁止した。そのような外部からの規制がどの程度まで許されるのかという問題が,科学技術の長足の進歩によって発生してきている。
第3の争点は,2014年に公布,翌年施行された「学校教育法及び国立大学法人法の一部を改正する法律及び学校教育法施行規則及び国立大学法人法施行規則の一部を改正する省令」によって,学長の権限が増すとともに教授会の権限は縮小されたことにともなう問題である。これによって,教授会がどこまで大学の自治の主体になるべきなのかといった,(2)に関連した権限配分の問題が新たに提起されることになった。
著者: 岩田弘三
参考文献: 海後宗臣・寺﨑昌男『大学教育』(戦後日本の教育改革9),東京大学出版会,1969.
参考文献: 伊ヶ崎暁生『大学の自治の歴史』新日本出版社,1965.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報