施行 明治二三年一一月二九日
告文
皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ
皇祖
皇宗及
皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ
神霊此レヲ鑒ミタマヘ
憲法発布勅語
朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ
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朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ
将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ
御名御璽
明治二十二年二月十一日
内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
枢密院議長 伯爵 伊藤博文
外務大臣 伯爵 大隈重信
海軍大臣 伯爵 西郷従道
農商務大臣 伯爵 井上馨
司法大臣 伯爵 山田顕義
大蔵大臣
兼内務大臣 伯爵 松方正義
陸軍大臣 伯爵 大山巌
文部大臣 子爵 森有礼
逓信大臣 子爵 榎本武揚
大日本帝国憲法
第一章 天皇
第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第六条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第七条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス
第八条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
〔2〕此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第九条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス
第一〇条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
第一一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第一二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第一三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
第一四条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
〔2〕戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第一五条 天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス
第一六条 天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス
第一七条 摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル
〔2〕摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ
第二章 臣民権利義務
第一八条 日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第一九条 日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得
第二〇条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス
第二一条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス
第二二条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス
第二三条 日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ
第二四条 日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルヽコトナシ
第二五条 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルヽコトナシ
第二六条 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ
第二七条 日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ
〔2〕公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第二八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
第二九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス
第三〇条 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得
第三一条 本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
第三二条 本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス
第三章 帝国議会
第三三条 帝国議会ハ貴族院衆議院ノ両院ヲ以テ成立ス
第三四条 貴族院ハ貴族院令ノ定ムル所ニ依リ皇族華族及勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス
第三五条 衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス
第三六条 何人モ同時ニ両議院ノ議員タルコトヲ得ス
第三七条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
第三八条 両議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各々法律案ヲ提出スルコトヲ得
第三九条 両議院ノ一ニ於テ否決シタル法律案ハ同会期中ニ於テ再ヒ提出スルコトヲ得ス
第四〇条 両議院ハ法律又ハ其ノ他ノ事件ニ付各々其ノ意見ヲ政府ニ建議スルコトヲ得但シ其ノ採納ヲ得サルモノハ同会期中ニ於テ再ヒ建議スルコトヲ得ス
第四一条 帝国議会ハ毎年之ヲ召集ス
第四二条 帝国議会ハ三箇月ヲ以テ会期トス必要アル場合ニ於テハ勅命ヲ以テ之ヲ延長スルコトアルヘシ
第四三条 臨時緊急ノ必要アル場合ニ於テ常会ノ外臨時会ヲ召集スヘシ
〔2〕臨時会ノ会期ヲ定ムルハ勅命ニ依ル
第四四条 帝国議会ノ開会閉会会期ノ延長及停会ハ両院同時ニ之ヲ行フヘシ
〔2〕衆議院解散ヲ命セラレタルトキハ貴族院ハ同時ニ停会セラルヘシ
第四五条 衆議院解散ヲ命セラレタルトキハ勅命ヲ以テ新ニ議員ヲ選挙セシメ解散ノ日ヨリ五箇月以内ニ之ヲ召集スヘシ
第四六条 両議院ハ各々其ノ総議員三分ノ一以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開キ議決ヲ為スコトヲ得ス
第四七条 両議院ノ議事ハ過半数ヲ以テ決ス可否同数ナルトキハ議長ノ決スル所ニ依ル
第四八条 両議院ノ会議ハ公開ス但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依リ秘密会ト為スコトヲ得
第四九条 両議院ハ各々天皇ニ上奏スルコトヲ得
第五〇条 両議院ハ臣民ヨリ呈出スル請願書ヲ受クルコトヲ得
第五一条 両議院ハ此ノ憲法及議院法ニ掲クルモノヽ外内部ノ整理ニ必要ナル諸規則ヲ定ムルコトヲ得
第五二条 両議院ノ議員ハ議院ニ於テ発言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ但シ議員自ラ其ノ言論ヲ演説刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ処分セラルヘシ
第五三条 両議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患ニ関ル罪ヲ除ク外会期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルヽコトナシ
第五四条 国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ及発言スルコトヲ得
第四章 国務大臣及枢密顧問
第五五条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
〔2〕凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
第五六条 枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス
第五章 司法
第五七条 司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ
〔2〕裁判所ノ構成ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第五八条 裁判官ハ法律ニ定メタル資格ヲ具フル者ヲ以テ之ニ任ス
〔2〕裁判官ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ処分ニ由ルノ外其ノ職ヲ免セラルヽコトナシ
〔3〕懲戒ノ条規ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第五九条 裁判ノ対審判決ハ之ヲ公開ス但シ安寧秩序又ハ風俗ヲ害スルノ虞アルトキハ法律ニ依リ又ハ裁判所ノ決議ヲ以テ対審ノ公開ヲ停ムルコトヲ得
第六〇条 特別裁判所ノ管轄ニ属スヘキモノハ別ニ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第六一条 行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス
第六章 会計
第六二条 新ニ租税ヲ課シ及税率ヲ変更スルハ法律ヲ以テ之ヲ定ムヘシ
〔2〕但シ報償ニ属スル行政上ノ手数料及其ノ他ノ収納金ハ前項ノ限ニ在ラス
〔3〕国債ヲ起シ及予算ニ定メタルモノヲ除ク外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スハ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ
第六三条 現行ノ租税ハ更ニ法律ヲ以テ之ヲ改メサル限ハ旧ニ依リ之ヲ徴収ス
第六四条 国家ノ歳出歳入ハ毎年予算ヲ以テ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ
〔2〕予算ノ款項ニ超過シ又ハ予算ノ外ニ生シタル支出アルトキハ後日帝国議会ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス
第六五条 予算ハ前ニ衆議院ニ提出スヘシ
第六六条 皇室経費ハ現在ノ定額ニ依リ毎年国庫ヨリ之ヲ支出シ将来増額ヲ要スル場合ヲ除ク外帝国議会ノ協賛ヲ要セス
第六七条 憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス
第六八条 特別ノ須要ニ因リ政府ハ予メ年限ヲ定メ継続費トシテ帝国議会ノ協賛ヲ求ムルコトヲ得
第六九条 避クヘカラサル予算ノ不足ヲ補フ為ニ又ハ予算ノ外ニ生シタル必要ノ費用ニ充ツル為ニ予備費ヲ設クヘシ
第七〇条 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得
〔2〕前項ノ場合ニ於テハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出シ其ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス
第七一条 帝国議会ニ於テ予算ヲ議定セス又ハ予算成立ニ至ラサルトキハ政府ハ前年度ノ予算ヲ施行スヘシ
第七二条 国家ノ歳出歳入ノ決算ハ会計検査院之ヲ検査確定シ政府ハ其ノ検査報告ト倶ニ之ヲ帝国議会ニ提出スヘシ
〔2〕会計検査院ノ組織及職権ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第七章 補則
第七三条 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
〔2〕此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
第七四条 皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス
〔2〕皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ条規ヲ変更スルコトヲ得ス
第七五条 憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス
第七六条 法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス
〔2〕歳出上政府ノ義務ニ係ル現在ノ契約又ハ命令ハ総テ第六十七条ノ例ニ依ル
1889年(明治22)2月11日に制定・公布され、翌90年11月29日に施行された日本の憲法典の正式名称。通称、明治憲法あるいは旧憲法ともよばれ、1947年(昭和22)5月2日まで存続した。
[池田政章]
徳川封建体制を解体した明治政府は、政府に不満をもつ士族たちの自由民権運動に突き上げられて、憲法の制定に熱意を示すようになり、1876年(明治9)9月元老院に草案起草を命じた。こうして、憲法制定の第一歩が踏み出された。元老院は、国憲取調委員を設けて、各国の憲法を参照し、同年10月「日本国憲按(けんあん)」第一次草稿を作成、さらに78年第二次草案をつくった。これはベルギー憲法などの影響を強く受けて、民主的な色彩の濃いものであったから、岩倉具視(ともみ)らの強い反対を受け、再修正されて、80年「日本国憲按」(第三次確定案)として奏上されたが、採用されなかった。このころ、民間にあっても私擬(しぎ)憲法(私人のつくる憲法草案)が盛んに提出された。なかでも植木枝盛(えもり)の私案憲法「日本国国憲按」などは急進的で、政府を大いに刺激したため、政府も憲法制定の必要性を痛感し、国会開設までに憲法を制定することを宣明した。
こうした経緯ののち、明治憲法制定の歴史の最後の幕は伊藤博文(ひろぶみ)の渡欧によってあけられた。彼はドイツの法律学者グナイストやシュタインの教えを受けて、ドイツ諸邦、とくにプロイセンの立憲君主制に日本国体に適合する政治組織をみいだした。帰国後、彼を中心として、井上毅(こわし)、金子堅太郎らが加わって最初の試案を1880年に作成、さらに88年に確定草案を完成した。この間何回かの起案、修正は民間の動きとはまったく無関係に秘密裏に行われ、絶対主義的政府の体質にあった案が作成された。成案は枢密院の諮詢(しじゅん)を経て、89年2月11日に欽定(きんてい)された。これが大日本帝国憲法であり、一度も改正されることなく、第二次世界大戦後、新憲法「日本国憲法」の施行(1947年5月3日)前日まで存続した。
[池田政章]
実質的意味の明治憲法は、大日本帝国憲法と皇室典範(憲法と同時に制定)に分かれ、いずれも等しく最高の成文法とされたから、成文憲法は二つあることになる。したがって、いっさいの成文法もそれに従って政務法と宮務法に分かれた。形式的意味の憲法、すなわち大日本帝国憲法は、上諭および7章76条からなり、簡潔で、かなり弾力性があった。それゆえに権力的支配が乱用される可能性を内包していた。帝国憲法は、その範型としたドイツ立憲君主制の場合と同じく、自由主義、民主主義の理念と、天皇制絶対主義の妥協として生まれたものであるが、その根本規範的部分である国体規定の第1条、および政体規定である第4条に加えられた注釈により、強い神権主義的色彩を帯びている。
民主的要素としては、政府に対するコントロールが弱いながらも議会が設置され、君主の専断防止のため大臣助言制を採用し、司法権の独立の原則を確立し、臣民の権利を規定するなどの点があげられ、それが封建社会の近代化に貢献した。さらにその後の憲政史にみられるように、2回の憲政擁護運動の成果として大正デモクラシー、政党政治の開花に大きく寄与している。しかしながら他方、天皇主権の原理にたち、統治権の総攬(そうらん)者として大きな権能が天皇に与えられた。独立命令、一連の緊急権が天皇の大権事項とされ、また枢密顧問制、貴族院の設置、軍の統帥権の独立などの反民主的要素が天壌無窮の神話に基づく天皇の絶対性と結び付いて、日本の民主化を閉塞(へいそく)し、神権主義的政治構造をつくりあげていった。こうした憲政の歩みは、そのまま大日本帝国憲法の特質とその歴史的役割を物語るものにほかならず、こうした神権主義のたどり着いた「八紘一宇(はっこういちう)」運動の挫折(ざせつ)こそ、帝国憲法の命運を端的に表現したものといえよう。
[池田政章]
『美濃部達吉著『憲法撮要』(1923・有斐閣)』▽『家永三郎著『歴史のなかの憲法 上巻』(1977・東京大学出版会)』▽『『歴史公論64号 大日本帝国憲法』(1981・雄山閣出版)』
1889年2月11日発布され,90年11月29日より施行され,形式的には1947年5月2日まで存続した憲法典で,〈明治憲法〉あるいは〈旧憲法〉とも呼ばれる。
明治維新にあたり政府は五ヵ条の誓文,政体書を出し政府組織を整えるとともに,版籍奉還,廃藩置県,身分制の廃止,徴兵令,地租改正等によって近代国家としての体裁を形成していった。しかし,西洋諸国との間の不平等条約を撤廃させるためには,富国強兵政策を推進する一方で,文明国にふさわしい近代法典を整備する必要があった。法典の中心をなす近代憲法制定の動きは1874年の民撰議院設立建白書に触発されたが,政府は急速な憲法制定を望まず漸進主義をとった。翌年設立された元老院がこの方針の下で憲法案の作成にあたり,ベルギー憲法,プロイセン憲法に範をとった〈日本国憲按〉が78年にできたが,その立憲的傾向は岩倉具視などのいれるところではなかった。
他方,明治10年代に活発化した自由民権運動の中からは,イギリスやフランスの憲法に影響をうけたさまざまな憲法私案(私擬憲法)が発表されたが,もとより政府の採るところではなく,自由民権運動自体がやがて抑圧されていった。
しかし,〈明治14年の政変〉により〈国会開設の詔〉が出され,これによって1890年を期して国会が開設されることになり,それまでに憲法も制定されることになった。そこで伊藤博文が渡欧し,主としてドイツ,オーストリアでグナイスト,シュタインについて憲法制度の取調べを行った。帰国後,伊藤はレースラーの意見を参考にしつつ,井上毅,伊東巳代治らとともに憲法案を起草し,その成案は1888年に設置された枢密院の諮詢を経て,89年2月11日,大日本帝国憲法として公布された。しかし,公布に至るまでその内容は国民にはまったく秘匿されていた。
(1)基本的特色 大日本帝国憲法は,西欧諸国の近代憲法の体裁を一応とっていたが,君主権の強いドイツ型立憲君主制を範とし,それに日本独自の天皇中心の国家観を加味したものであっただけに,絶対主義的色彩を強く帯びていた。このため旧憲法は,議会を設けるなどの立憲的要素と絶対主義的要素の両要素からなっており,しかも後者が顕著なので〈外見的立憲主義〉との評価が与えられている。旧憲法は上喩と7章76条からなる簡潔なものであるが,天皇が制定した欽定憲法であり,その改正発案権は天皇のみにあり,発布の際の勅語では永遠に不滅な〈不磨の大典〉として位置づけられていた。実際,日本国憲法制定まで一度も改正されることがなかった。なお,皇室に関する事項については,皇位の継承等を含めて,別に皇室典範が制定され,宮務法の最高法規とされており,政務法の最高法規とされた旧憲法とともに二元的法体系がとられていた。
(2)天皇 第1章が天皇であり,それは17ヵ条という比較的多くの規定で構成されていることに示されるように,天皇は旧憲法の中核であった。〈大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉(大日本帝国憲法1条)とされて天皇は主権者であるとともに,元首として統治権を総攬した(4条)。この天皇の地位は天孫降臨の神勅によって根拠づけられていたので,〈天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス〉(3条)との規定から文字どおり天皇を現人神(あらひとがみ)とみる解釈を生む一方で,国家に対して強い宗教性を与え,神道の国家宗教化をもたらした。天皇は憲法の条規により統治権を行使したが,立法権は議会の協賛によって,また広範な大権は原則的に国務各大臣の輔弼(ほひつ)によって天皇がこれを行い,司法権は天皇の名によって独立の裁判所がこれを行った。他方,天皇は皇室の長として皇室事務を統裁した。
(3)統治構造 天皇の下で統治権の行使に関与する機関は帝国議会,国務大臣,裁判所の3機関分離制をとっていた。立法に協賛する機関として帝国議会が存在したことは旧憲法の立憲的側面の最たるものであるが,天皇に議会が関与しえない独立命令権(9条)などの副立法権が認められていたことや,公選による衆議院と基本的に対等なものとして皇族,華族,勅任議員などからなる貴族院が設置され国民の意見を抑制していたことなどに非立憲的側面が表れている。大権・行政権を輔弼する国務各大臣は天皇によって任命され,天皇に対してのみ責任を負うものとされており,内閣総理大臣は同輩中の首席にすぎず,その権限は弱かった。また,統帥大権や栄誉大権などには国務大臣の輔弼が及ばないなど,その権能には限界があった。他方,財政権については議会の責任追及を免れうるよう配慮されており(63,67,71条),非立憲的要素が加重されている。司法権の独立は大津事件(1891)などをとおして一応守られていたが,軍法会議といった特別裁判所や,行政事件を終審として扱う行政裁判所(行政裁判)が設置されていた。
以上の立憲的な機関のほかに,天皇の諮詢にこたえて重要な国務を審議する枢密院が設けられていたが,枢密顧問官は勅任であり,国民の統制は及ばなかった。また,憲法外の機関として,天皇を常時輔弼する内大臣や,次期内閣総理大臣を天皇に推薦した元老などがあり,事実上政治に関与した。軍は慣習法的に認められていた〈統帥権の独立〉によって天皇以外の何ものにも制約されない立場にあった。このように,旧憲法下には非立憲的機関が複雑に存在し,天皇以外にこれらを統括するものはなく,各機関が各個に無責任になりがちであった。
(4)権利 旧憲法は一応表現の自由などの権利を認めていたが,それは西洋の近代憲法における基本的人権のような自然権的・前国家的な権利ではなく,天皇が恩恵的に〈臣民〉に与えた後国家的権利にすぎなかった。実際に,信教の自由を除いて,いずれも法律によって制限できるか,法律の範囲内において認められる権利であった(〈法律の留保〉)。〈法律の留保〉のない信教の自由についても〈安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限〉(28条)において認められる権利であったから,現人神たる天皇ひいては国家神道(靖国神社,伊勢神宮)を礼拝することが臣民に強制されることになった。
なお,非常時には,天皇はこれらの権利を全面的に停止することができた(非常大権)。また,皇族・華族などの特権身分を設けたので,平等原則に関する一般的な規定はない。
絶対主義的・立憲的の両面をもつ旧憲法の解釈において,天皇大権を強調する方向で理解しようとする穂積八束,上杉慎吉ら(神権学派)と,立憲的側面を中心に理解しようとする美濃部達吉ら(立憲学派)との対立があった。両者は,〈国体〉概念を憲法上認めるか,天皇は統治権の主体であるか,天皇を神格化するか,大権行使に議会の参与は許されるか,輔弼は大権行使の要件であるかなどの点で鋭く対立した。この結果,神権学派によると,神格化された天皇が具体的決断を行い,他の機関は天皇の決断を助ける存在でしかないことになるが,立憲学派は,国家の最高機関である天皇とともに議会を直接機関として位置づけることによって天皇の地位・権能を相対化し,憲政の議院内閣制的運用を期待した。また,後者では国務大臣の輔弼に実質的拘束力が期待されていたので,現実の政治は議会の信任に基礎をおく内閣によって行われ,天皇はその上部に権威として存在することが構想されていた。
旧憲法の実際の運用において,大正デモクラシーの時期から立憲学派的理解が有力となり,議会主義に重点をおく政党内閣制の時代が実現した。しかし,昭和に入り軍部の勢力が強まると政党内閣制は崩壊し,立憲学派的理解も批判の的となり,1935年の〈天皇機関説事件〉を契機に政治的・物理的に圧殺された。また,立憲学派でも肯定されていた〈統帥権の独立〉によって内閣等が軍令事項に口をはさめない一方で,陸・海軍大臣は武官でなければならないという〈陸海軍大臣武官制〉(軍部)によって軍は公然と政治に口をはさめるばかりか内閣の進退をも左右できたので,昭和になっての軍部の独走を制度的にも許すことになった。しかも,陸軍・海軍を唯一人統括できる天皇が軍令機関の輔弼に対して消極的に対応する状況の下では,各軍の独走を制約するものは何もなく,結局は歯止めのないまま全面戦争に突入することになったのである。権利についても,治安維持法や治安警察法などの権利制約立法が乱立し,実態的に権利はなきに等しい状況があった。そして,法律規制事項を大幅に命令規制事項にした1938年の国家総動員法によって旧憲法の立憲的要素は実質的に払拭された。
→天皇
執筆者:横田 耕一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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明治中期~昭和前期の日本国家の基本となった憲法。通称は明治憲法。ヨーロッパで憲法調査にあたった伊藤博文を中心に,おもにプロイセンやドイツ諸邦の憲法を範に起草。枢密院の審議をへて1889年(明治22)2月11日に欽定憲法として発布され,90年11月29日に帝国議会の開会とともに発効した。全76条。この憲法によれば,天皇は国の元首として統治権を総攬(そうらん)し,法律の裁可,議会の召集,衆議院の解散,陸海軍の統帥・編制,宣戦・講和,条約の締結,文武官の任免,緊急勅令の発布など広範な大権を有し(第4~16条),憲法の条規により統治権を行使することとされた(第4条)。国務大臣は天皇を輔弼(ほひつ)し責任を負うとしているが,国民・議会への責任は明文化されていない。国民は公務への就任や請願の権利,法律によらない逮捕の否認,言論・出版・集会・結社・信教の自由や所有権の不可侵などを制約つきながら認められた。帝国議会は衆議院・貴族院の二院制で立法や予算議定などの権限をもった。大日本帝国憲法の発布により天皇を中心とする国家体制が確立されるとともに,国民の国政に参与する途も開かれ,日本はアジアにおける唯一の立憲国家となった。この憲法には君権主義と立憲主義の原理が併存し,解釈の幅は大きく,大正期には立憲主義的理解が深まったが,1930年代後半以降,軍部の台頭で立憲主義的要素は骨抜きとなった。第2次大戦の敗戦により実質的機能は失われ,47年(昭和22)5月3日,日本国憲法にかわった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…特異な例であるが植木枝盛の作成した〈日本国国憲按〉(1881)には,人民の自由権利を制限する立法の禁止,思想の自由,教授の自由,歩行の自由,拷問の禁止,死刑の廃止,無法に抵抗する権利など斬新な内容の人権規定が多く含まれている。国民のあいだにみられた人権要求は大日本帝国憲法(1889公布)には十分反映されなかった。憲法の審議に際して,〈臣民の分際〉に改めてはどうかという森有礼の提案に対し,伊藤博文は,憲法で臣民の権利を列記せず責任のみを記載するのであれば,憲法を設ける必要はないとこたえている。…
…大日本帝国憲法制定以前に,民間で起草された憲法。官吏が個人的な立場で試草した憲法案もこれに含めることができる。…
…また民間の憲法草案の多くは〈皇帝〉〈国帝〉という類の帝号で記されていた。まさに〈天皇〉という公称の成立は大日本帝国憲法によって確定されたわけであるが,その英訳はEmperorであり,外交文書では〈皇帝〉とされていた。外交文書の〈皇帝〉が〈天皇〉となるのは,国体論が時代を謳歌する潮流になってのことで,1936年をまたねばならない。…
…この時期の特徴は,自由民権運動の鎮圧後,国内的には一応天皇を中心とする統治機構が確立したものの,なお不平等条約の改正と法典編纂の完成とによる法体系完成への模索が行われた点にある。統治機構は,1889年の大日本帝国憲法とその付属法令の制定によって確立した。主としてプロイセン憲法を参照した大日本帝国憲法は,帝国議会を開設したものの,天皇による統治権の総攬と,国民の基本的人権の制約とを特徴とする。…
※「大日本帝国憲法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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