憲法学者、行政法学者。明治憲法の立憲主義的解釈の代表者。明治6年5月7日、兵庫県加古郡高砂(たかさご)町(現高砂市)に生まれる。1897年(明治30)東京帝国大学法科大学卒業後、憲法学を志すが、穂積八束(ほづみやつか)教授の学説に批判的であったため、一時内務省に勤務。1899年よりドイツ、フランス、イギリスに留学。1900年(明治33)東京帝国大学比較法制史の助教授となる。1902年教授、1908年より行政法講座を兼担、1911年より中田薫(なかだかおる)に比較法制史の講座を譲って、行政法の専任となる。1920年(大正9)に憲法第二講座を兼担する。
ドイツの公法学者イェリネックの影響と、民主化を不可避の歴史の動向と解する歴史観から、穂積八束とは対極的な憲法理論を樹立した。それによると、(1)法は社会心理の表れで、社会心理の変化するところ条文が変わらなくても憲法の内容は変化する(憲法変遷論)、(2)国家は主権をもった法人格であり、君主はその最高機関である(国家法人説、天皇機関説)、(3)天皇は政治に口を出さず、議会や内閣に国政をゆだねるのが憲法の精神である(天皇超政論)、(4)天皇が衆議院の多数党の党首を総理大臣に任命することが立憲制の精神にかなっている(イギリス立憲主義)などをその内容としている。
1912年、穂積八束の後継者上杉慎吉(うえすぎしんきち)が、この説(とくに(2)の天皇機関説)を、天皇は日本の主権者でないと主張する「国体に対する異説」であると批判し、論争となったが、大正期には美濃部の学説が支配的な学説となった。多くの審議会で立法に関与し、また治安維持法批判、ロンドン条約支持など、政治論の分野でも活躍した。1931年(昭和6)貴族院勅選議員。1934年東大を定年で退官。1935年に議会で天皇機関説が攻撃され不敬罪で告訴されて、著書の一部が発禁処分を受け、貴族院議員の辞任に追い込まれたばかりか、翌1936年には暴漢に襲われて負傷した。
第二次世界大戦後は内閣の憲法問題調査会顧問、枢密顧問官として憲法問題に関与していたが、日本国憲法による「国体」の変更に批判的態度をとり、「オールド・リベラリストの限界」といわれた。著書は膨大で、『日本憲法』(1921)、『憲法撮要』(1923)、『行政法撮要』(1924)、『逐条憲法精義』(1927)、『日本国憲法原論』(1948)などのほか、法哲学、諸法、政治評論など広範な領域にわたる。昭和23年5月23日死去。その門下から宮沢俊義(みやざわとしよし)、清宮四郎(きよみやしろう)、田中二郎など多くの公法学者が輩出した。
[長尾龍一]
『家永三郎著『美濃部達吉の思想史的研究』(1964・岩波書店)』
憲法学者,行政法学者。兵庫県生れ。1897年東大卒。内務省勤務の後,99年よりヨーロッパ留学。1900年東大法学部助教授,02年教授として比較法制史を担当。08年より内務省に去った師の一木喜徳郎のあとをうけ,行政法第一講座を担当,20年より憲法第二講座の担当者となる。11年夏,文部省の委嘱を受けて中等学校教員のための憲法講義を行い,12年にその筆記を公刊。天皇機関説を唱え,穂積八束の議論を厳しく批判するものであったため,穂積の弟子上杉慎吉より〈国体に関する異説〉として批判され,雑誌《太陽》を舞台に論争したが,学界・知識層の強い支持を得た。法制審議会委員として選挙法改正など立法にも関与。32年より貴族院勅選議員。大正末期以降治安維持法批判,ロンドン条約支持,帝人事件捜査の人権侵害批判など,政治評論でも活躍したが,右翼陣営の攻撃を受け,35年議会でその天皇機関説が糾弾され,《憲法撮要》など著書の発禁処分を受けて,貴族院議員の辞任を余儀なくされた。戦後は幣原喜重郎内閣の憲法問題調査委員会顧問,46年枢密顧問官となったが,日本国憲法に対しては〈国体を護持する〉という終戦条件に違反している等の理由で批判的態度をとり,オールド・リベラリストの限界といわれた。その学説は,G.イェリネックの影響下で国家法人説に立ち,また法解釈を歴史の発展に調和させるべく,柔軟な法運用の必要を力説した。また議院内閣制を歴史の必然的動向としてとらえ,憲法の自由主義的運用を力説した。著書は《憲法撮要》(1923),《逐条憲法精義》(1927),《日本国憲法原論》(1948)など多数。
執筆者:長尾 龍一
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(三谷太一郎)
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明治〜昭和期の憲法学者,行政法学者 枢密顧問官;貴院議員(勅選);東京帝大教授。
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1873.5.7~1948.5.23
明治~昭和期の憲法・行政法学者。美濃部亮吉(りょうきち)の父。兵庫県出身。東大卒。内務省をへて1899年(明治32)から独・英・仏に留学。1902年に帰国し東京帝国大学教授となり,行政法講座を担当。12年(大正元)天皇機関説に立つ「憲法講話」刊行。上杉慎吉と論争となるが,学界の支持をえた。20年から憲法第2講座兼担。32年(昭和7)貴族院勅選議員。34年定年退官。学説に軍部・ファッショ勢力の批判が強まり,35年の貴族院での菊池武夫の攻撃を契機に政治問題化。著書の発禁と不敬罪で告訴され,議員を辞職した(天皇機関説事件)。第2次大戦後,新憲法の調査・改正に参画。
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…1935年(昭和10)2月の帝国議会における美濃部達吉の天皇機関説問題に発端し,翌年10月の教学刷新評議会(文部大臣の諮問機関)の答申に基づいて展開されはじめ,第2次大戦敗戦時まで継続された,政府・軍部・民間右翼による,日本精神と国体論とに立脚した教育・学問・思想の統制の政策および運動。 成長する日本資本主義の市場拡大を軍事侵出によって果たそうとする政府・軍部などにとって,大正デモクラシー下での社会主義・自由主義思想の台頭とその学生・知識人・労働者層への浸透は,許しがたい国内的不安要因とされた。…
…美濃部達吉の著書。1923年刊。…
…1911年,小学校の国定教科書の南北朝記述をめぐって南北朝正閏問題が起こったが,北朝系の明治天皇の勅裁により君臣の大義から南朝正統が決定した。
[大正デモクラシー期]
まず美濃部達吉の天皇機関説を上杉慎吉が天皇親政論から批判したのに対し,美濃部は国体は文化的概念であるとして法学的世界からそれを除き,吉野作造も日本国体の優秀性は特別の君臣情誼関係という民族精神の問題であるとして政治学の対象から除外し,デモクラシーと国体は矛盾しないとした。大正期には公認のイデオローグ井上哲次郎ですら《我国体と世界の趨勢》で,君主主義と民主主義の調和にこそ国体の安全があると説いた。…
…こうした二つの方向は,満州事変以後の戦時体制化の過程で,合体しながら攻撃的性格を強め,35年には,憲法解釈としての天皇機関説排撃を突破口として,個人主義,自由主義をも反国体的なものとして否定しようとする国体明徴運動をひき起こすこととなった。まず35年2月の第67議会で貴族院の菊池武夫が美濃部達吉(当時東京帝大教授,貴族院議員)の学説をとりあげ,統治権の主体を国家とし,天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は,天皇の絶対性を否定し,天皇の統治権を制限しようとする反国体的なものだ,として攻撃を開始,これに呼応して院外でも軍部の支持のもとに在郷軍人会や右翼団体などの運動が全国的に展開されることとなった。岡田啓介内閣もこれに屈して,4月9日には《憲法撮要》など美濃部の3著書を発売禁止処分とし,さらに8月3日には第1次,10月15日には第2次の国体明徴声明を発して,天皇機関説を国体に反するものと断定,この学説の排除を決定した。…
…大日本帝国憲法(明治憲法)の解釈をめぐる一学説。美濃部達吉によって代表される。この学説の特色は,〈統治権は天皇に最高の源を発する〉という形で天皇主権の原則を認めるが,しかし同時に天皇の権力を絶対無限のものとみることに反対する点にある。…
…一方,新人会その他の学生からは反発が生じ,恩師高野岩三郎は証人,佐々木惣一,吉野作造らは特別弁護人として立ち,河上肇,長谷川如是閑らも大学自治擁護の論陣をはった。しかし,法学部教授美濃部達吉が朝憲紊乱罪の乱用に危惧を表明しながらも,経済学部教授会の休職決議を至当と公言し,また,経済学部教授渡辺銕蔵は黎明会の会合で,教授会の決議を非難されたため退席するなど,民本主義の潮流にも亀裂が生じた。しかし,森戸とともに連袂(れんべい)辞職の講師櫛田民蔵,助手細川嘉六らも加えて,高野を所長とする大原社会問題研究所が発足し,東大経済学部も河合栄治郎,矢内原忠雄の助教授就任,大内の復職など失地回復の素地は残された。…
…その運用において立憲的要素を強調しようとする人々は,〈憲政の常道〉を説いて,帝国議会の役割の強化と,責任内閣制を主張した。立憲学派の代表であった美濃部達吉は,〈国民自治ノ思想〉と〈自由平等ノ思想〉を立憲主義の中心思想とし,〈直接民主主義〉(スイス),〈権力分立主義〉(アメリカ),〈議院内閣主義〉(〈現代諸国ノ最モ普通ナルモノ〉),〈官僚主義〉(ドイツ)それぞれの〈立憲政体〉を区別していた。日本国憲法は,一方で,個人の尊厳をうたい,人権を永久不可侵のものとして保障し,他方で,国会を国権の最高機関としながらも,憲法の最高法規性を確保する違憲審査制を定め,権力への制約の見地を強調することによって,近代立憲主義の正統をひくものとなっている。…
※「美濃部達吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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