[合宿から学寮へ]
中世ヨーロッパに誕生した大学に学ぶ学徒の多くはいわゆる他国者であったから,大学都市にやってきた時にまず確保すべきは宿舎であった。宿舎の形態は賄い付き下宿,間借りなどさまざまであったが,最も一般的だったのは,何人かの仲間で一軒の家屋を借り受けて共同生活をするという方式である。いわば「合宿」であり,それらは「ホスピキウム」「ホール」などと呼ばれた。このホスピキウム方式は,同じ学徒として団結し自己防衛をはかったり権利の獲得を目指したりする点からも,また経済的な面からも便利であった。
実際,ホスピキウムの家賃をめぐっては家主と賃借者との間でしばしば問題が生じたが,ホスピキウムの住人である学徒,そしてその背後にある大学団は団結して,家賃が法外につり上げられるのを防ぐ体制を敷いた。町の代表と大学団の代表からなる「家賃査定係」の設置である。それは大学団が獲得した諸特権のなかで最も早いものの一つ,大学団最初の役職の一つであり,やがて教皇や国王の承認を要する重要な役職となる。
しかしながらホスピキウムという居住形態は,学徒の生活の場,安心して勉学に励む場としては必ずしも適切とは言えなかった。中世の大学都市はいつも宿舎難の状態にあり,家賃査定係の活動にもかかわらず,家賃が安くて居心地の良い家屋は容易には見つからなかったし,また家賃をめぐるいざこざも絶えなかった。そのうえ,合宿には学徒が(大学当局にとって)好ましくない思想にかぶれるとか,放埒で不健康な生活をするといった,血気盛んな若者が集団で自由気ままな生活をすることから生じるさまざまな問題があった。こうした問題を背景に,学徒の居住の場はやがて合宿(ホスピキウム)から学寮(カレッジcollege)へと変化していく。
[学寮の創設]
学寮は合宿とは異なり,いわばパトロンつきの宿舎であった。パリではすでに1180年に「18人学寮(フランス)」が設けられていた。ロンドンのヨキウスという信心深い者がノートルダム寺院の近くにあった聖マリア施療院の一部を買い取って,大学で学ぶ貧しい学徒の宿舎としてあてがったのである。18人の学徒を収容したことから「18人学寮」と呼ばれたこの学寮は,個人篤志家によって学徒用宿舎が寄贈された最初期の例であり,その後の慣行の嚆矢となった。以後,学寮の設立が相次ぎ,パリではその後の1世紀ほどの間にソルボンヌ(1257年)など約20,1500年までにはダルクール(1280年),ナヴァール(1305年),モンテギュー(フランス)(1314年),ナルボンヌ(1317年),アベマリア(1336年)など68を数えた。ボローニャでは,1367年に枢機卿アルボノスによって「スペイン学寮(イタリア)」が設立されている。スペインの若者30人を収容して,法学の本場で修学させることがその目的であった。
学寮の創設者は司教や枢機卿といった高位聖職者,国王・貴族・領主などの世俗の権力者,大商人などであった。彼らは現世で得た富の一部を社会に還元しないかぎり来世で救われないとの中世的敬神の念などから,学寮のパトロンとなった。遺言状などによって学寮の創設を謳い,そのために必要な基本財産(所領など)を寄贈し,目的,構成員,運営方法等を明記した規約を定めて学寮の安定的存続をはかった。「18人学寮」やナヴァール学寮,ハイデルベルクのディオニシアヌムなど初期の学寮の創設目的は,貧しい学徒に対する慈善と奨学であった。だが,それらと同時に郷土愛も初期の学寮創設の重要な一因であった。
やがて時代の推移とともに学寮の創設目的も,助け合い精神の涵養,品位ある規律正しい生活,神学の学習,法学の助成などへと変化していった。概していえば,国家・教会・社会に必要な有能なエリート人材の効果的養成へという方向への変化である。それに伴って,とくにイギリスの場合に顕著なように,王権による,権力と資金にものいわせた豪壮華麗な学寮も誕生していく。さらに15世紀には,百年戦争による戦乱や疫病によってもたらされた教師・知識人の不足を補充する目的で,また16世紀にはルネサンス新学芸の振興を目的として学寮が創設された。前者の例としてはパリのモンテギュー,オックスフォードのオールソウルズ(イギリス),ケンブリッジのキングズ・カレッジ(イギリス),後者の例としてはルーヴァンの「三国語学寮(ベルギー)」,オックスフォードのコーパス・クリスティ(イギリス)が有名である。
上述のように,学寮は中世からルネサンスの時代にかけてヨーロッパ大陸部の大学でもみられた。しかしその後,大陸では学部を中心に大学が発展するに伴い,学寮は次第に衰退していった。一方,オックスフォードとケンブリッジというイギリスの2大学では学寮を中心に大学が発展を遂げ,「学寮制大学」として今日見られるような独自の大学類型を形成することとなった。
著者: 安原義仁
[イギリスの学寮]
[モデルとしてのニュー・カレッジ] イギリスの場合にも,大学で学ぶ学徒の多くがまず居住の場としたのはホステルないしホールであった。やがて国王,貴族,高位聖職者,商人などの有志篤志家が慈善や奨学のため,あるいは有能な人材の育成を期して学寮を創設するにいたる経緯もヨーロッパ大陸部の場合と同様である。学寮は学徒で構成されるパトロン付きの生活・教育共同体であり,独自の基本財産と規約を有する自治法人団体であった。
イギリスの学寮(イギリス)はオックスフォードのユニバーシティ・カレッジ(イギリス)(1249年)とケンブリッジのピーターハウス(イギリス)(1284年)を嚆矢として,以後今日にいたるまで次々と設立されていくが,そうした学寮のなかで,建築様式や運営その他の面で後世のモデルとなったのはオックスフォードのニュー・カレッジ(イギリス)であった。ニュー・カレッジはウィンチェスター司教で大法官にもなったウィカムのウィリアムにより,1379年に設立された。学識ある聖職者の養成を目的に「学徒にふさわしい品位ある規律正しい生活」を願ってのことであった。彼は郷里のウィンチェスターにも姉妹校である聖マリア・カレッジ(イギリス)(今日まで続く名門パブリック・スクール,ウィンチェスター・カレッジ)を創設している。
おおかた,庭をめぐって礼拝堂と食堂(ホール),図書室,学寮員(フェロー)の居室を配し,回廊付き中庭とつなぐ学寮の建築様式(方庭形式)はニュー・カレッジによって確立されたものであった。ニュー・カレッジは一人の学寮長(イギリス)(ウォードン(イギリス)と呼ばれる)と70人の奨学生(スカラー(イギリス))で構成され,ほかに礼拝堂付き司祭,書記,少年聖歌隊などを含め100人を数える大世帯であった。年少のスカラーは2年を経過するとフェロー(イギリス)となり,学寮長とともにカレッジの運営に参画した。学寮の運営は衣食住全般にわたって細かく規定された創設規約に則って行われ,その永続的安定を保証した。学寮が大陸の諸大学では発達せず,イギリスの大学において顕著な発展をとげた一因として,豊かな基本財産に裏づけられていたことと並んで,注意深く規定された創設規約の存在もあった。
[学寮制大学の成立] イギリスの学寮は15世紀末までに,オックスフォードとケンブリッジでそれぞれ10を数えるにいたった。その一方でホールやホステルも存続していた。そうした状況はやがて「ホール,ホステルから学寮へ」という顕著な動きへと変化していく。ルネサンス・宗教改革という思潮に洗われた16世紀は,19世紀ならびに20世紀とともに学寮創設ラッシュの時代であり,オックスブリッジ両大学にそれぞれ六つの学寮が設立された。数だけではない。チューダー絶対王政の成立を見,ルネサンス新学芸の流入を目の当たりにした時代の学寮は,従来の学寮には見られなかった性格や機能を備えていた。すなわち,学部自費生の大量流入,俗人学生の増加,学寮内における教育の組織化である。
学寮は本来,長期間の学習を志す貧困学徒のための慈善・奨学施設であり,奨学生(スカラーないしフェロー)を対象にしていた。ところが,16世紀には奨学生以外に大量の学部自費生(イギリス)(コモナー(イギリス))を受け入れるようになり,しかもその多くは貴族・地主など俗人有力者の子弟たちであった。ルネサンス新学芸に基づくジェントルマン教育理念や,安全で秩序ある生活・教育の場としての学寮が新たな顧客を呼び込んだのである。自費生がもたらす豊かな財源は大学・学寮にとっても魅力的であった。一方,すでにニュー・カレッジなどで年長の学生が年少の学生に対して生活・学習面での指導を行う慣行(チューター制(イギリス)の始まり)や学寮内での授業が始まっていたが,こうした学寮内での教育の組織化もこの時代に進んだ。かくて,学部生の教育を中心とする世俗的な傾向を取り入れた近代の学寮が誕生し,それとともにイギリスの大学に顕著な「学寮制大学(イギリス)」が成立していくのである。学寮はスコットランドのセント・アンドリューズ大学など(1411年設立)にも見られるが,一般にはこの「学寮制大学」であるオックスブリッジ(イギリス)の学寮を意味する場合が多い。
[学寮(カレッジ)と全学(ユニバーシティ)] 学寮制大学の成立以降,大学の運営は学寮長による寡頭制によって行われるようになり,学生の生活・教育は学寮を中心に展開されることとなった。だが,大学の中核に位置してその運営と教育に責任を持つべき学寮は,国王や高位聖職者などをはじめとする歴代篤志家の手厚い庇護を受けて次第に裕福になるとともに,やがて閉鎖的特権団体と化していく。19世紀オックスブリッジの大学改革の重要テーマの一つは,既得権益の擁護に固執する学寮(カレッジ)に対して,全学としてのユニバーシティの復権・復興をはかり,正しい衡を回復することにあった。19世紀の大学改革はまた,女子カレッジ(ケンブリッジのガートン・カレッジなど)の誕生をもたらしたし,20世紀にはカレッジの共学化や大学院生用のカレッジ(オックスフォードのリナカー・カレッジなど)の設立という新しい動きが見られた。
著者: 安原義仁
[フランスの学寮]
現在のフランスでコレージュ(フランス)(collège(フランス))は,小学校を卒業したすべての生徒が進学する「中学校」を意味するが,中世において大学が誕生した頃は,大学の貧しい学生や奨学生を受け入れる「学寮」であった。篤志家の寄付や遺言によって創設され,独自の規約をもち,土地・建物を備えた慈善施設としてのコレージュは,パリでは12世紀末から1422年までの間に56創設されている(15世紀の終わりにはトゥールーズに14,モンペリエに3,アヴィニョンに3あった)。それらのコレージュには,大学の学位を得ようとする修道士のための修道会コレージュ(フランス)(collège régulier)と,修道会に属さない聖職者やふつうの学生のための世俗コレージュ(フランス)(collège séculier)の2種類があった。
[托鉢修道会] 1217年に托鉢修道会(フランス)がパリに到着したころ,コレージュの数はごく限られていた(1180年に設けられた18人学寮,1186年創設のサン・トマ・デュ・ルーヴル学寮,12世紀末にセーヌ河左岸に初めて創られたボン・ザンファン・ド・サン・ヴィクトール学寮など)。しかし托鉢修道会ドミニコ会の「ジャコバン学寮(フランス)」とフランシス会の「コルドリエ学寮(フランス)」は,やがてパリ大学で神学の博士号を取ろうとする多くの修道士たちも受け入れる本格的なものとなる(ジャコバン学寮には1224年に120人の寮生がいた)。その後,13世紀前半に創られるコレージュはすべて修道会コレージュである。
[ソルボンヌ学寮] 1257年にルイ9世の聴罪司祭ロベール・ド・ソルボンによって創設されるコレージュ(ソルボンヌ学寮(フランス))は,修道会系(レギュリエ(フランス))と世俗系(セキュリエ(フランス))の対立を鎮めること(あるいは托鉢修道会の影響を押しとどめること)を目的に,13世紀になって初めて創られた世俗コレージュである。神学を学ぼうとするすべての学生に開かれていたこの学寮は,入るには一連の厳しい試練をくぐらねばならなかったが,やがて托鉢修道会のコレージュに匹敵する威信をもつものとなる。その後,1270年代の半ばから14世紀前半にかけて,数多くの世俗コレージュが創られている。
[ナヴァール学寮] そのなかでも1305年創設のナヴァール学寮(フランス)は,王家によって創られた最初のものであり,ソルボンヌと同じように他のコレージュのモデルとなった。王妃ジャンヌ・ド・ナヴァールの遺言により70人の学生を受け入れるべく創られたこの学寮では,講義もすべて寮内で行われるようになり,奨学生たちは外に出る必要がなくなった。その成功を受けて,とりわけ王の相談役たちが競うように新たな学寮を創るようになる。ソルボンヌ学寮が世俗コレージュの新設ラッシュをもたらしたとすると,ナヴァール学寮はコレージュそのものを変容させた。それは貧しい学生を救うための慈善施設であったはずのコレージュを,王室に忠実で優秀な官吏を育てるための場へと変貌させたのである。
[学寮としてのコレージュの凋落] 14世紀の後半には八つの世俗コレージュしか創られていない。1348年のペストの大流行,1357~60年にかけての不安定な政治情勢のためとされる。さらに1407年以後になると,ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦によりコレージュは危機にさらされる。パリ大学はブルゴーニュ派についたが,アルマニャック派に好意的であったいくつかのコレージュ(とりわけナヴァール学寮)は略奪と破壊に遭った。1422年にパリがイギリスの支配下に入ってからコレージュに関する記録はほとんどない。再建の動きが見え始めるのは1460~70年頃からである。運営のための資金に苦しむコレージュは,寮費を払うことのできる豊かな学生を歓迎するようになる。
[コレージュ・ド・フランスとイエズス会のコレージュ] 1630年にフランソワ1世が創設するコレージュ・ロワイヤル(フランス)(のちのコレージュ・ド・フランス(フランス))は,パリ大学を批判するユマニストたちの牙城となった。またその影響のもと,イエズス会によって創られるいくつものコレージュも,厳格なカリキュラムのもとでユマニスムにもとづく教育をおこなう全寮制の学校となった。イギリスでは大学はカレッジを中心に発展するが,フランスのコレージュはむしろ大学の外に出て生きのびている。イエズス会のコレージュ・ド・クレルモン(フランス)(クレルモン学寮(フランス))は,1682年にルイ14世の正式の庇護を得てコレージュ・ルイ=ル=グラン(フランス)となるが,1762年のイエズス会の追放の後には,パリ大学の本部として使われて28のコレージュを吸収している。しかしフランス大革命によって大学が廃絶された後も,1802年にはリセ(フランス)となってエリートを輩出するようになるのである。
著者: 岡山茂
[概説,イギリス]◎横尾壮英『中世大学都市への旅』朝日新聞社,1992.
[フランス]◎エミール・デュルケム著,小関藤一郎訳『フランス教育思想史』行路社,1981.
参考文献: Aurélie Perraut, L'architecture des collèges parisiens au Moyen Age, Pups, Paris, 2009.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…江戸時代に仏教各宗派で設立した僧侶の教育機関で,学寮,談林,檀林などとも呼ばれた。江戸幕府は各宗の法度(はつと)で宗学研鑽のための就学を義務づけたが,また各宗でも宗学を中心とする仏教研究が急速に発展し,住職となるために一定期間学林などで学ぶことを求めた。…
…ふつうはユニバーシティの一部だが,リベラル・アーツ・カレッジliberal arts collegeのように単独のものもある。なお,トレーニング・カレッジtraining collegeは教員養成,テクニカル・カレッジtechnical collegeは技師養成をそれぞれ行う単独の機関を意味するように,伝統的なイギリスの学寮やアメリカ的非専門高等教育機関の意味とは別の用い方もある。ジュニア・カレッジ大学【宮沢 康人】。…
…この間,学生数の増加に伴い,裁判上の特権をめぐって市民としばしば対立,〈タウンとガウン〉の争いと呼ばれる流血騒ぎを起こし,そのつど国王からの支持の下に,特権を獲得していった。学生は,教師が借りた下宿hostelで生活し,そこで自由七科の講義を受けたが,卒業後さらに研究の継続を欲する貧しい学生を対象に学寮college(カレッジ)が建設された。オックスフォード大学のマートン学寮にならって1284年に設立されたピーターハウスがその最初である。…
…学部には,神学,法学(教会法,市民法),医学と,その予科的な学芸学部があったが,すべての大学が4学部全部をもっていたわけではない。また本来学生の寄宿舎であった学寮(コレギウムcollegium)が,後に大学の重要な構成単位となったイギリスの大学の例もある(カレッジ)。中世末期になると,大学での学問は当初の清新さを失ってしだいに硬直化するが,教育機関としての社会的役割は増大した。…
※「学寮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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