日本大百科全書(ニッポニカ)「寮」の解説
寮
りょう
律令(りつりょう)官制において、省の被管(ひかん)として設けられた官司。官司としての格は、職(しき)と司(し)の間にあった。『日本書紀』によると、大宝(たいほう)令以前、天武(てんむ)朝(672~686)に「陰陽(おんよう)寮」「大学寮」、持統(じとう)朝(686~697)に「内蔵(くら)寮」などがみえるが、官制として整ったのは大宝令においてであろう。
大宝令制の寮としては、中務(なかつかさ)省所管の左・右大舎人(おおとねり)、図書(ずしょ)、内蔵、縫殿(ぬいどの)、陰陽の6寮、式部省所管の大学、散位(さんに)の2寮、治部(じぶ)省所管の雅楽(うた)、玄蕃(げんば)の2寮、民部省所管の主計(かずえ)、主税(ちから)の2寮、宮内省所管の木工(もく)、大炊(おおい)、主殿(とのも)、典薬(てんやく)の4寮、および左・右馬(め)寮の合計18寮がある。職員はいずれも長官が頭(かみ)、次官が助(すけ)、判官が大・少允(じょう)または允、主典が大・少属(さかん)。このうち左・右大舎人、図書、大学、雅楽、玄蕃、主計、主税、大工(だいく)、左・右馬の11寮は、頭の相当位が従(じゅ)五位上(じょう)、判官が大・少允各1人で大寮であり、内蔵、縫殿、陰陽、散位、大炊、主殿、典薬の7寮は、頭の相当位が従五位下(げ)、判官が允1人で小寮である。
ただし、内蔵寮と縫殿寮は、それぞれ808年(大同3)と799年(延暦18)に大寮となり、散位寮は896年(寛平8)に式部省に併合された。以上のほか令に規定のない寮として、701年(大宝1)に、伊勢(いせ)の斎王(さいおう)に奉仕するための斎宮(さいくう)司を改めて斎宮寮とし、728年(神亀5)に中務省の被管として内匠(たくみ)寮を置き、さらに808年同寮に画工(えたくみ)司と漆部(うるしべ)司を併合した。729年(天平1)治部省所管の諸陵(しょりょう)司を改めて諸陵寮とし、820年(弘仁11)清掃、鋪設(ふせつ)をつかさどる掃部(かにもり)司と内(うちの)掃部司を統合し、宮内省の被管として掃部寮を設置、896年に左・右兵庫(ひょうご)、造兵(ぞうへい)司、鼓吹(くすい)司を統合し、兵部省の被管として兵庫寮を設置した。これらのうち掃部寮のみが小寮で、他は大寮である。また707年(慶雲4)に天皇の側近警護のために授刀(じゅとう)舎人寮が設置されたが、同寮は728年設置の中衛(ちゅうえ)府に併合されたと考えられている。
[柳雄太郎]