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宇和島城 うわじまじょう

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日本の城がわかる事典の解説

うわじまじょう【宇和島城】

愛媛県宇和島市丸之内にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。標高74mの山頂部に本丸を構え、城郭は五角形、水堀に海水を引き入れて、城郭の西側半分が海に接する海城(うみじろ)でもあった。宇和島はかつて板島(いたじま)といい、かなり古くからこの地に豪族の砦があったという。戦国時代に西園寺氏が築城し、板島丸串城(いたじままるぐしじょう)と称した。1595年(文禄4)、藤堂高虎が宇和郡を所領とし、入城した。翌年城の大改修に着手し、6年後の1601年(慶長6)に近代城郭に造り直し、宇和島城と改称した。関ヶ原の戦いの戦功により、高虎は竣工の前年に今治に移封となっていたが、宇和島城の完成を見届けてから移った。1614年(慶長19)に伊達政宗(まさむね)の長男秀宗(ひでむね)が入封、2代藩主の宗利(むねとし)が老朽化した城の修築に取りかかる。この時、今ある三重3階の天守が建て替えられた。以来、宇和島伊達氏は明治維新まで9代つづいた。特徴であった五角形の堀は明治期に埋め立てられ、遺構の多くは大正時代まで残ったものの、その後、徐々に取り壊され、国宝の大手門も第二次世界大戦の戦災で消失した。本丸の天守と、搦手口(からめてぐち)(城の裏口)にある上り立ち門(のぼりたちもん)が現存する。JR予讃本線宇和島駅から徒歩15分。◇鶴島城(つるしまじょう)、板島城(いたじまじょう)、丸串城(まるぐしじょう)ともいう。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

宇和島城

藤堂高虎が1600年ごろに創建。現在の天守は1666年ごろに伊達宗利が再建したもので、松山城や高知城など全国で12しかない現存天守の一つ。約10万平方メートルの城山は自然豊かで、約300種の草木が自生。5月に出た仏ミシュラン社の日本旅行ガイドで、「一つ星(興味深い)」に認定された。

(2011-12-24 朝日新聞 朝刊 愛媛全県 1地方)

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デジタル大辞泉の解説

うわじま‐じょう〔‐ジヤウ〕【宇和島城】

宇和島市にある旧宇和島藩の城。慶長元年(1596)から同6年にかけて、藤堂高虎(とうどうたかとら)が築城。のちに伊達宗利(だてむねとし)が寛文2年(1662)から改修。現存の天守閣江戸時代の特色を残すものとして有名。鶴島城。

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国指定史跡ガイドの解説

うわじまじょう【宇和島城】


愛媛県宇和島市丸之内にある城跡。別名、鶴島城。リアス式海岸が続く宇和島湾に面する景勝地にあり、標高約80mの丘陵とその一帯に城域が広がっている。山頂の本丸を取り囲むように二の丸、北麓にある三の丸の近くには長門丸、藤兵衛丸を設け、西麓には代右衛門丸、内堀を隔てて侍屋敷のある外郭とし、北と西の1辺は海に面し、東・南・西南の3辺は濠をめぐらし、海水を引き入れていた。本丸の天守からは西海岸に抜ける間道が数本あり、舟小屋や水軍の基地に通じていたという。中世には板島丸串城とも呼ばれ、戦国期の天正~永禄年間(1532~70年)、豊後の大友勢が侵攻した頃には、土豪である家藤監物が守っていたといい、1575年(天正3)に西園寺宣久の居城となった。安土桃山時代には豊臣秀吉の四国討伐によって小早川氏の所領となったが、その後1595年(文禄4)に築城の名手でもあった藤堂高虎(とうどうたかとら)が宇和島に入った。高虎は中世にあった板島丸串城の跡に城を築き、1601年(慶長6)、平面が不等辺五角形に見える縄張りをもつ現在の姿の城が完成した。関ヶ原の戦いの功績により、高虎は伊予国府(今治)に移され、1614年(慶長19)、伊達(だて)政宗の長男秀宗が10万石で入封し、地名が宇和島と変わった。そして2代藩主宗利(むねとし)のとき、大改修が行われ、1671年(寛文11)に現在の天守が完成した。3重3階の層塔形の天守は高さ約16m、装飾性の高い破風(はふ)をもち、御殿建築の意匠が随所にみられ、現存12天守の一つで、重要文化財に指定されている。南の登城口には七つあった門のうち、上(のぼ)り立ち門が残り、城跡一帯は1937年(昭和12)に国の史跡に指定されたが、太平洋戦争の空襲で大手門(追手門)は焼失した。JR宇和島駅から徒歩約25分。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宇和島城
うわじまじょう

戦国期から江戸期の城。愛媛県宇和島市丸之内にある。古くは丸串(まるぐし)城といい、典型的な平山城(ひらやまじろ)である。941年(天慶4)藤原純友(すみとも)の乱のとき、警固使であった橘遠保(たちばなのとおやす)が居城したとの伝えもあるが不詳。戦国期、家藤監物(いえふじけんもつ)、さらに1575年(天正3)西園寺宣久(さいおんじのぶひさ)が居城している。1585年からは小早川隆景(こばやかわたかかげ)の支配するところとなり、城代が置かれたが、1595年(文禄4)藤堂高虎(とうどうたかとら)が7万石を領して入り、修築を加え、現在みられるような不等辺五角形の特異な縄張りに改められている。のち富田信高(とみたのぶたか)を経て伊達政宗(だてまさむね)の長男秀宗(ひでむね)が1615年(元和1)10万石で入城、以来世襲して幕末に至った。往時は城門17、櫓(やぐら)33を数えたが、現在は寛文(かんぶん)(1661~73)のころ修築された天守閣と上立門(のぼりたちもん)を残すのみである。[小和田哲男]

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世界大百科事典内の宇和島城の言及

【宇和島[市]】より

…1615年(元和1)伊達秀宗が入封して以来,伊達氏10万石の城下町として栄えた。市街は分離丘陵に立地する宇和島城を中心に展開し,東・南方の旧市街は扇状地上に,北・西方の新市街は旧干拓地上に立地する。大正年間から第2次世界大戦前までは製糸工業が盛んであったが,現在は造船,木工,食品加工などが発達する。…

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