宇土藩(読み)うとはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇土藩」の意味・わかりやすい解説

宇土藩
うとはん

肥後国熊本県宇土陣屋を構え、宇土郡、下益城(しもましき)郡(一部)を領有した肥後細川藩の支藩。領知高は3万5253石余。その成立は、熊本藩主細川光尚(みつなお)が従弟(いとこ)の細川行孝(ゆきたか)(父は前藩主細川忠利(ただとし)の弟立孝(たてたか))に1646年(正保3)7月分知したのに始まる。この宇土は、かつて豊臣(とよとみ)期に小西行長(ゆきなが)が拠城とした所である。司法、立法、行政権は本藩に把握されていたが、徴税、教育、産業などの権限が独立していたし、また参勤交代は行ったので、宇土支藩と別称する。11代行真(ゆきざね)のとき、版籍奉還によって熊本藩に吸収される。歴代藩主の治績のなかでもとくに初代行孝は、宇土の低湿地による塩分飲料水を解消するため、全国で初めての上水道を舗設したが、今日までなお使用されている。また5代興文(おきぶみ)(月翁(げつおう))は文教に努め藩校温知館(おんちかん)を設立し、殖産政策として櫨(はぜ)、楮(こうぞ)を奨励した。幕末には磁器「網田焼(おうだやき)」が特産され、九州一名品とも評された。また周辺有明(ありあけ)海沿岸に相次いで干拓事業が行われ、今日の宇土平野の基礎を築いた。

[森山恒雄]

『『熊本県史 総説篇』(1961・熊本県)』『『宇土市史』(1960・宇土市)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宇土藩」の意味・わかりやすい解説

宇土藩
うとはん

江戸時代肥後国 (熊本県) 益城 (ましき) 郡宇土地方を領有した藩。慶長5 (1600) 年小西行長が 20万石の領地を除かれ,一時熊本藩に属したが,正保3 (46) 年,細川行孝が3万石の分知を受けて以来子孫が継いで廃藩置県にいたる。外様,江戸城柳間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「宇土藩」の解説

宇土藩

肥後国、宇土(現:熊本県宇土市)に陣屋を置いた外様の小藩。正保年間、熊本藩主・細川光尚(みつなお)が、従兄の細川行孝(ゆきたか)に3万石余を分知したのが起源。以後は代々その子孫が藩主をつとめ、11代行真(ゆきざね)のとき、版籍奉還となり熊本藩に吸収された。

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世界大百科事典(旧版)内の宇土藩の言及

【熊本藩】より

…忠利は熊本城に入り,八代城には父忠興が隠居として入り3万石を領した。46年(正保3)忠興の死後八代城は老臣松井佐渡守興長に預けられ,藩主光尚(みつなお)の従弟行孝は宇土,益城2郡のうち3万石を内分されて宇土藩を立てた。ついで66年(寛文6)藩主綱利の弟利重は蔵米のうち3万5000石を内分されて江戸定府の新田藩(1868年高瀬に移り高瀬藩)を立てた。…

【細川氏】より

…その子忠利は1632年(寛永9)加藤忠広改易後の肥後54万石に封ぜられ熊本城主となり,父忠興は八代城に入り隠居領3万石を領した。46年(正保3)忠興の死後八代城に家老松井興長が入り,忠興の四男立孝(早世)の子行孝は藩主光尚から宇土・益城2郡のうち3万石を内分され宇土町に館を構えた(宇土藩)。熊本新田藩は66年(寛文6)光尚の次男利重が兄綱利から新田3万5000石を蔵米で給され,江戸定府であった。…

※「宇土藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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