宇土城跡(読み)うとじようあと

日本歴史地名大系 「宇土城跡」の解説

宇土城跡
うとじようあと

[現在地名]宇土市古城町・神馬町

宇土市街字城山しろやまにある近世初頭の城跡。天正一六年(一五八八)閏五月、秀吉より宇土・益城ましき・八代三郡二四万石を安堵された小西行長が六月に入部し、宇土に本拠を置き、翌一七年に名和氏の宇土古城は狭小であったため築城に着手した(事蹟通考)本丸・二ノ丸・三ノ丸・外郭からなり、城と堀の面積が広いことがその特色で、三層からなる天守閣四方より望むことができ、その姿が鶴に似ていたので「鶴の城」とよばれ(国誌)、宇土古城を名和城とよぶのに対して小西城ともよばれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「宇土城跡」の解説

うとじょうあと【宇土城跡】


熊本県宇土市神馬町にある城跡。県の海岸部中央、宇土半島の基部に位置し、現在の市街地西南の西岡台と称される独立丘陵上に築城された。古来、交通の要衝にあたり、初めは宇土氏が居城し、次いで名和氏が入り、豊臣秀吉九州征伐によって名和氏の時代は終わった。1588年(天正16)に小西行長が肥後国宇土郡などを所領とすると、かつての宇土城の東にあった城山新城を築いた。この城は、3層の天守を構えた城・武家屋敷・城下町が水堀と運河によって統合されたものだった。当初の城は、1048年(治承3)に築かれたといわれ、東に主郭となる千畳敷と西に三の城と呼ばれる2つの郭(くるわ)で成り立ち、千畳敷の周囲は横堀で囲まれていた。多数の掘立柱建物跡や城門遺構が検出され、中国製陶磁器も出土した。1979年(昭和54)に国の史跡に指定された。現在は建物跡・城門などが復元され、歴史公園になっている。JR鹿児島本線ほか宇土駅から車で約12分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報