宇根村(読み)うにむら

日本歴史地名大系 「宇根村」の解説

宇根村
うにむら

[現在地名]久米島町宇根うね

仲里なかざとう間切東部に位置し、北は真謝まーじや村、南西は謝名堂じやなどー村。東は東シナ海に面し、奥武おー(西奥武島)オーハ島(東奥武島)を望む。旧集落は登武那覇とうんなは御嶽・宇根ノロ殿内のある山の中腹にあったが、順治五年(一六四八)真謝村に居住していた宮平親雲上と比屋定目差が王府に願出て低地の宇茶武(ウチャム)に家立てし、集落移動後に旧集落名宇根を村名としたという(球陽・公孫姓家譜)。真謝とは村落間の結び付きが強く、古くからウチャム・マージャと併称されてきた(仲里村誌)。山の中腹の旧集落を上宇根ういーうにと呼称した。「おもろさうし」巻一一の三六に「一 くめのこいしのか(久米島のコイシノ〔神女〕が)/もゝうらこいしのか(百浦〔に轟く〕コイシノが)/せこい きゝほしや(勢声聞きたい)/くにとよみ(国の鳴響み)/又 あやみねにあつる(綾嶺にある)/うきおほちがうへけ(大き大父が植えた木)/又 あやみねにあつる(綾嶺にある)/うきはわかうへけ(大き母が植え木)/又 うねにおて うては(宇根にいて打てば)/大さとにとよて(大里に鳴響んで)/又 大さとに〔おて〕うては(大里において打てば)/大くににとよて(大国に鳴響んで)」と祖先が植えた木で鼓を作り、それを打って大国(沖縄)までもとよんでいると謡う。


宇根村
うねむら

[現在地名]高月町宇根

高月村の南、高時たかとき川西岸平地に立地。東境を北国街道が通る。はちつぼ・九ノ坪・十ノ坪・十五ノ坪などの地名が残り、近年まで条里遺構もみられた。宇禰とも書かれた。中世には富永とみなが庄に含まれ、応永二八年(一四二一)五月八日の法橋兼全奉書案(井口日吉神社文書)に「宇禰郷善道依忍場、西宇禰郷名主百姓等、五院大郎方へ押懸、及合戦」とあり、富永庄代官兼全は乱暴に及んだ西宇禰の百姓等を罪科に処すよう命じている。同年九月二日の山門使節連署状案(井口日吉神社文書)によれば、高月郷円通えんつう寺の寺領地に「宇根村人」が勝手に立屋を造ったと、円通寺から訴えられている。


宇根村
うねむら

[現在地名]上月町宇根

須安すやす村の西に位置し、標高二〇〇―三〇〇メートルの山上の谷窪にあるしよう別当べつとう姿すがたこめ片倉かたくらぼうの六集落よりなる。西は美作国英田あいだ蓮花寺れんげじ(現岡山県作東町)。江戸時代の領主の変遷は上月村に同じ。正保郷帳には村名がみえず須安村に含まれていたが、その後分村。元禄郷帳に「古ハ須安村」の注記付で村名がみえ、高二八四石余。


宇根村
うねむら

[現在地名]金津町宇根

観音かんのん川の水源地に近く、加越山中の谷間にある。「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」として細呂宜ほそろぎ郷中に「宇弥一野村」とある。これは、下流にある市野々いちのの村を享保郷帳が宇根市野々と記したり、地方文書中に畝市野々と記したものがあるから、市野々村のみをさしたものか、当村も含めたものかは不明。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では細呂木郷に含まれ、正保郷帳に宇根村と記される。江戸時代を通じて福井藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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