宇津木村
うつきむら
[現在地名]八王子市宇津木町・久保山町
加住北丘陵(滝山丘陵)の頂陵部から谷地川を越えて加住南丘陵の北斜面にまでわたって立地。東は石川村。西から東へ流れる谷地川沿いに古甲州道が通っていた。村の南の尾崎境に一里塚があり、永禄―天正(一五五八―九二)の頃に相州から武蔵河越(現埼玉県川越市)に通じた街道筋のものと伝えていた。中世は京都東福寺領船木田庄内の一郷で、至徳二年(一三八五)一二月二五日の船木田庄年貢算用状(東福寺文書)に新庄分として「宇津木郷内青木村分」とあり、「漆百文」の年貢納入が記される。
宇津木村
うつぎむら
北は生馬村(現上富田町)、南は小川村、東は大村・玉伝村、西は久木村。集落は東西に貫流する日置川に沿って散在する。村内の宇津木坂は、生馬村払合を経て田辺方面に至る往還であった。「続風土記」に「木に因りて呼ひ来れるなり」と記される。慶長検地高目録には「宇都木村」と記され、村高三一石余、小物成五斗一升一合。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領であったが、正保三年(一六四六)今高制施行により上知となったため、嘉永六年(一八五三)に返還されるまで、和歌山藩口熊野代官所(現すさみ町)の支配下に置かれ、周参見組に属した。
宇津木村
うつぎむら
[現在地名]古座川町宇津木
池野山村の西、古座川下流北岸に位置する。慶長検地高目録によると村高三七石余、小物成六升。古座組に属し、「続風土記」には家数一八、人数六五とあり、「村領の山中に溲疏多き故に名つくるならむ」と記す。慶安三年(一六五〇)の古座組在々郷組之覚(古座町教育委員会保管)に浦組制度による当村の動員体制として家数一八、人数二六、舟三(川舟)、鉄砲一を記す。
宇津木村
うつきむら
[現在地名]八丈町宇津木
小島の南東部にあった。安永三年(一七七四)の伊豆国附島々様子大概書によると、反別は畑一一町二反余、戸口は一九軒・一五一人、ほかに流人が二人(うち一人は浮田流人の娘)。為朝神社は「南方海島志」に「正一位八郎祠(中略)神主菊池虎之助、社領二石」とみえ、「浮世風呂」の作者式亭三馬の父はこの神主菊池家の人。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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