小説家。札幌市生まれ。本名鵜野廣澄(うのひろずみ)。生後から少年期にかけて東京、山口、福岡、満州(現中国東北地方)の撫順(ぶじゅん/フーシュン)、長野、満州の奉天(現瀋陽)と転居する。第二次世界大戦の終結で中国より引き揚げた後は、母親の郷里である福岡に居住。ツルゲーネフの『猟人日記』に感化され、空気銃をもって山野を徘徊する少年時代を送る。
1954年(昭和29)、東京大学を受験して失敗し、1年間の浪人生活にはいる。この時期初めての作品、ローマ神話を題材にした史劇「ディードー」300枚を書き、作家として立つ志を強める。翌55年東京大学に入学するがほとんど出席はせず、同人誌『半世界』に参加し「食人と現代芸術」などのエッセイや評論、小説の習作を書く。同誌には北杜夫(もりお)、水上勉、川上宗薫(そうくん)、佐藤愛子、文芸評論家となる日沼倫太郎(1925―68)らも参加していた。59年東京大学文学部国文科卒業後、同大学院人文系修士課程に進学。同年、同人誌『異次元』を創刊する。博士課程に進学した61年、炭坑労働者たちの生活を少年の眼から描いた「光りの飢え」が芥川賞の候補にあげられる。さらに同年、次作の「鯨神(くじらがみ)」で第46回芥川賞を受賞する。
この作品は、明治初年の長崎平戸沖での漁師と鯨との壮烈な死闘を描いた物語である。1頭の巨鯨に祖父、父、兄を殺された若者の復讐譚という点では、メルビルの『白鯨』と共通している。その類似点は多くの評者に指摘されたが、一方で、鯨とりの場面の迫力や、方言、呪詞(じゅし)を多用して題材を土俗化しようとする意図と手法が着目され、これを純日本的な文学として評価する意見も多数あり、何より圧倒的な筆力が注目された。また大江健三郎、倉橋由美子と同年代のため「遅れてきた学生作家」と呼ばれたが、宇能自身は「知的戦後世代」として戦後を語りたいと述べて話題になる。それは芥川賞受賞の際に「感想」として述べたもので、戦後世代のイメージはまず石原慎太郎、ついで大江によってもたらされたとする。しかし石原はもっぱら肉体・行動的側面において戦後世代の典型的人物を造形し、大江は感情の面において優れて戦後を反映している人物を描こうと試みたが、宇能はこれに対し「この二つの造形においては、戦後世代の知的な面を描くことはないがしろにされたため、戦後世代は、知性の欠如を一つの特徴として連想される宿命をも負わされてしまった」と、同世代の作家とはまったく異なる新たな道を模索する決意を示した。
その思いはやがて性と死の同時性、性と土俗性の絡み合い、サディズム・マゾヒズムを追求する方向へと向かい、70年ごろまでには小説家として確固たる地位を固める。この時代の代表作には『獣の悦(よろこ)び』(1966)、『魔楽』(1969)、『切腹願望』(1970)などがある。さらにその後は、しだいに性の世界を独特の執拗なタッチで描く娯楽小説へと重心を移し、大衆的な人気を得るようになる。72年『女ざかり』(1973)など、のちに一世を風靡(ふうび)する若い女性の独白体小説を書き始める。この「わたし……なんです」という独白文体は、それまでのポルノ小説の文体とは大きく異なり、新しいスタイルのポルノ小説として人気を得た。そのためこのころから週刊誌、新聞、小説誌の連載が急激に増え始め、73年には『あつい夜』『ためいき』『遊びざかり』『男あそび』など作品27篇を発表、単行本10点を刊行。74年には小説35篇、単行本15点と驚異的な執筆量になり、以後こうした生活が20年以上にも及び、『人形あそび』(1974)、『むちむちぷりん』(1975)、『好奇心ざかり』(1979)、『女体育教師』(1980)、『色白女教師』(1989)など多数の作品を発表した。同時に嵯峨島(さがしま)昭の別名でミステリーも執筆するなど幅広い活躍をみせている。
[関口苑生]
『『獣の悦び』(1966・講談社)』▽『『魔楽』(1969・講談社)』▽『『切腹願望』(1970・徳間書店)』▽『『女ざかり』(1979・双葉社)』▽『『鯨神』(中公文庫)』
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