日本大百科全書(ニッポニカ) 「川上宗薫」の意味・わかりやすい解説
川上宗薫
かわかみそうくん
(1924―1985)
小説家。愛媛県生まれ。本名宗薫(むねしげ)。父親はプロテスタントの牧師で、大分、長崎と転々と居を移す少年時代を過ごす。第二次世界大戦中の1944年(昭和19)、長崎県大村市の陸軍連隊に入隊したおり、軍隊生活が嫌で断食を決行。軍医の目をごまかし、復員までの1年近く入院生活を送ることに成功する。しかし、長崎の原爆で母と2人の妹を失うという不幸に見舞われる。50年(昭和25)九州大学文学部英文科卒業後、千葉県の高校で英語教師となり、教師生活のかたわら同人誌『新表現』『半世界』などに小説を発表、しだいにその実力を認められる。
54年「その掟」が芥川賞候補となり、選考委員だった石川達三が「作家としての力倆(りきりょう)から言えば『その掟』が第一だ。(中略)だが、この作家は必ず伸びる。作者が落選に失望しないことを望む」と激賞した。これを皮切りに、川上はその後立て続けに芥川賞の候補にあげられる。
54年には「初心」、55年「或る眼醒め」、59年「シルエット」、60年「憂鬱な獣」がそれらの作品で、石川はいずれも好意的な選評を寄せた。また吉行淳之介や文芸評論家の平野謙、山本健吉らも文芸時評で川上の作品を高く評価した。そうした後押しにも力を得て、60年勤め先の高校を退職、小説一筋に打ち込む決意を固める。
ところが61年から彼の活動内容は一変する。その理由は定かではないが、一般的にはこの年文芸誌『新潮』に発表した、作者自身とおぼしき人物と某有名作家との確執を描いた「作家の喧嘩」の評判があまりにも悪かったためといわれている。実際、この作品以降、純文学作品はわずか2編の短編しか発表せず、その後はほかの分野で活路を見いだしてゆく。
純文学時代が川上の第1期とするならば、61~67年中・高校生向けのジュニア小説を数多く発表した時期が第2期といえる。『若い仲間』(1961)、『ただいま在学中』(1962)、『いいきな高校生』(1963)、『レモンのような娘』(1965)などの代表作があるが、この分野では富島健夫(たけお)(1931―98)と並ぶ人気作家となった。そして第3期となる官能小説時代こそ、川上の名を世間に知らしめた分野であった。
川上の作品は、一連の芥川賞候補作を筆頭に初期作品群においても、性の目覚めや性の意識および女性の身体への希求と不信感を描いたものが多かったが、自伝的短編集『或る体質』(1972)によれば、自分が育ってきた家庭環境に遠因があるという。キリスト教のストイシズムとリゴリズムに対しての反発が土台となって、自身の性への欲求、女性の身体への傾斜を深めていったというのである。66年ごろからスポーツ紙や週刊誌に大胆な性描写を駆使した官能小説を連載し、圧倒的な支持を受ける。そのきっかけとなった作品は、66~67年スポーツ紙に連載した『肌色あつめ』(1971)で、続いて『夜行性人間』(1968)を週刊誌に連載、それ以後は小説誌に毎月のごとく短編が掲載されるようになる。この時期の代表作には『誘惑の午後』(1968)、『女歴』(1969)、『色狩り』『恍惚の裏』(ともに1970)などがあるが、川上の友人でもあった田中小実昌(こみまさ)が「近頃の小説にでてくる女性はベッドのなかで、やたらに失神する」と発言。これが引き金をひく格好となって「失神派」「失神小説」なる言葉が一世を風靡する。川上自身も『小説現代』70年1月号で「人われを失神作家とよぶ」を発表。以後、失神派作家の名称が与えられるようになった。
84年からリンパ腺癌で闘病生活をおくり、ドキュメント小説『死にたくない!』(1986)が遺作となった。
[関口苑生]
『『若い仲間』(1961・秋元書房)』▽『『ただいま在学中』(1962・秋元書房)』▽『『いいきな高校生』(1963・秋元書房)』▽『『誘惑の午後』(1968・講談社)』▽『『女歴』(1969・講談社)』▽『『或る体質』(1972・中央公論社)』▽『『死にたくない!』(1986・サンケイ出版)』▽『『レモンのような娘』(集英社文庫)』