日本歴史地名大系 「守山町」の解説 守山町もりやままち 富山県:高岡市旧射水郡小矢部川左岸地区守山町[現在地名]高岡市守山二上(ふたがみ)山麓の南、小矢部川下流左岸に位置し、対岸は長慶寺(ちようけいじ)村。獅子頭(ししがしら)山という名の二上山の一峰があり、村名は古代に守部が置かれて神の山である二上山の木の伐採を守護していたことによるという(越中志徴)。南北朝の動乱により放生津(ほうじようづ)(現新湊市)の守護所が焼失し、新守護斯波義将が当地に守護所を置いたといわれている。さらに守護所が移ったあと守山城が築かれ、神保氏の有力支城として能登畠山氏・越後上杉氏などとの攻防が繰返された。天正六年(一五七八)以前から同一三年まで在城した神保氏張のあと前田利勝(利長)が慶長二年(一五九七)富山へ移るまで居城し、守山体制というべき政治体制がつくられた。射水郡など三郡の領主利長に、文禄四年(一五九五)新川(にいかわ)郡が加封され、守山は越中一国の首都となった。礪波(となみ)・射水・氷見(ひみ)の穀倉地帯、小矢部川・庄川・伏木(ふしき)湊・放生津湊の海運を掌握するのに格好の地であった。また城下町は守護町(しゆごまち)から海老坂(えびさか)にまで及び、最盛期二五ヵ寺があった。城下には文禄五年檜物座があり(「檜物師申定状」上埜家文書)、同年天秤役銀五枚を納める天秤座もあった(「守山銀請取状」加賀藩貨幣録)。慶長一〇年天秤座から灰吹きの用法で鋳造された銀貨五枚が納入された(「天秤役銀子請取事」有賀家文書)。 守山町もりやままち 富山県:高岡市高岡町守山町[現在地名]高岡市守山町御馬出(おんまだし)町に直交し、北に延びる両側町で、西に利屋(とぎや)町が並行する。北陸街道は御馬出町の中ほどで北に折れて当町に入り、木舟(きぶね)町に至る。道幅は二丈一尺一寸、利屋町や一番(いちばん)町へ通じる脇道もあった(正徳二年「守山町絵図」高岡市立中央図書館蔵)、町入口には木戸が設けられていた(不歩記)。木舟町・小馬出(こんまだし)町とともに通り筋(とおりすじ)三町とよばれ、大商店が軒を並べた。守山城下の人々が引越して町立てされたと伝える。守山町々名并釘貫紋之由来(高岡市史料集)では、横町屋が富山より引越したが、先祖が守山城下にいたので守山中町と唱え、翌年芝原屋某等が来住して一八、九軒となったという。元和二年(一六一六)に往還通りなどが改良され、守山町と称したが、中町・守山二番町とも唱えたといわれる。二番町もこの由縁ありという。 守山町もりやまちよう 京都市:中京区柳池学区守山町中京区富小路通御池上ル南北に通る富小路(とみのこうじ)通を挟む両側町。南は現御池(おいけ)通に面する。平安京の条坊では左京三条四坊四保一〇町の東側の地。平安中期以降は三条坊門小路富小路北にあたる。平安時代中期には、当町を中心とした方一町の地は、藤原定方の宅中西殿(なかにしどの)の敷地であった(拾芥抄)。町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「森山町」とみえ、寛文五年(一六六五)刊「京雀」では「守山町」とあり以降変化はない。 守山町もりやまちよう 東京都:中央区旧京橋区地区守山町[現在地名]中央区銀座(ぎんざ)六―七丁目滝山(たきやま)町・惣十郎(そうじゆうろう)町の東にあり、北は南鍋(みなみなべ)町二丁目、東は尾張(おわり)町二丁目・竹川(たけかわ)町、南は竹川町。ほぼ中央を東西の道が通る。両側町。享保年中江戸絵図に町名がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by