山田宗徧(1627-1708)を流祖とする茶道の流儀の一つ。山田宗徧は東本願寺の末寺である,京都二本松の長徳寺明覚の子として生まれ,周学と称していた。16歳で小堀遠州より印可をうけ,そののち千宗旦の門をたたいて還俗し,宗旦四天王の随一として四方庵,不審庵などの号を与えられ,利休流侘草庵茶の皆伝をうける。1655年(明暦1)宗旦の推挙で三河国吉田城主小笠原忠知に茶道をもって仕官し,三十数年間を同地ですごしている。71歳で致仕して江戸に居を構えてから,吉田で著した《茶道要録》《茶道便蒙抄》を出版し,利休流茶法の最初の版行として広く受け入れられた。かくして宗徧流が成立し,以後代々小笠原家に仕えてきた。現在,9世宗徧が家元を継承して鎌倉を中心に三河地方,関東一円に広く流布し,また小笠原家が転封された肥前唐津,越後長岡などにも門下が多い。
執筆者:筒井 紘一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸初期、山田宗徧を開祖とする茶道流派。宗旦(そうたん)四天王の一人である宗徧は、師千宗旦の推挙により、三河(みかわ)吉田城主(愛知県豊橋(とよはし)市)小笠原忠知(おがさわらただとも)の茶頭(さどう)となり、100石を知行。以後、長矩(ながのり)、長祐(ながすけ)、長重(ながしげ)の4代に歴仕し、1697年(元禄10)71歳で致仕(ちし)。晩年は江戸に下り、本所二丁目に居を構え、利休正風の茶法を称して幅広い階層から多くの弟子を集めた。しかし利休・宗旦の禅に徹した隠者的茶風に比して、宗徧の茶風は、その経歴にもよろうが、武家的色彩が比較的濃く反映されている。また仕えた大名が礼法の祖として名高い小笠原貞宗(さだむね)の流れをくむ家柄であり、代々儀式典礼に明るかったことも、宗徧の茶に影響していよう。
[筒井紘一]
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