やまだ‐そうへん【山田宗&JISEAC0;】
- 江戸初期の茶人。父の跡を継ぎ、東本願寺末長徳寺の住持となる。千宗旦に茶を学び、還俗して洛西三宝寺に四方庵を構えた。晩年江戸に出て、利休正伝の茶法として宗徧流を創始。著に「茶道要録」。寛永四~宝永五年(一六二七‐一七〇八)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
山田 宗徧
ヤマダ ソウヘン
昭和期の茶道家,実業家 宗徧流家元(10代目)。
- 生年
- 明治41(1908)年3月2日
- 没年
- 昭和62(1987)年1月22日
- 出生地
- 大阪府大阪市
- 本名
- 山田 長守
- 別名
- 前名=山田 宗囲(ヤマダ ソウイ),号=不審庵,成学,申抱子
- 学歴〔年〕
- 東京帝大法学部政治学科〔昭和8年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- トルコ文化勲章〔昭和55年〕,勲三等瑞宝章〔昭和60年〕
- 経歴
- 昭和8年興銀に入り、18年三島製紙に。常務を経て、25年退職。この間、19年に茶道・宗徧(そうへん)流明道会副会長、のち会長を務める。38年宗徧流10代家元を襲名。同年不審庵理事長に就任。はじめ宗囲を名のるが、54年9月流祖の宗徧を襲名し実名とする。父宗有の死後鎌倉へ移る。親子2代90年にわたり、トルコとの間で民間大使の役割を果たし、55年トルコ政府から文化勲章を授与された。著書に「茶を語る」「山田宗徧全集」(第3巻)など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
山田宗徧
やまだそうへん
(1627―1708)
江戸時代中期の茶匠。千宗旦(せんのそうたん)の弟子で、宗旦四天王の随一。山田は母方の姓で、初め宗円と称した。京都長徳寺明覚(みょうかく)の子で周学(しゅうがく)といい、寺を継いだが、茶を好み、18歳のとき宗旦の門に入る。8年後、皆伝を機に寺を去り、鳴滝(なるたき)に四方庵(あん)を営む。1655年(明暦1)宗旦の推挙で三河国吉田藩の小笠原忠知(おがさわらただとも)の茶頭(さどう)となり、不審庵(ふしんあん)・今日庵(こんにちあん)・力囲斎(りきいさい)の号を与えられる。同藩4代に仕え、1697年(元禄10)同藩の武蔵岩槻(むさしいわつき)への転封を機に致仕し、江戸・本所に住む。以前からの関係で吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の茶事指南にあたったが、これを知った播州(ばんしゅう)赤穂(あこう)浪士大高源五(おおたかげんご)が弟子となり、吉良邸討入りの日を決めた逸話は有名。著書『茶道便蒙(べんもう)抄』『茶道要録』『利休茶具図絵』など。
[村井康彦]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
山田宗徧(1) やまだ-そうへん
1627-1708 江戸時代前期の茶人。
寛永4年生まれ。千宗旦(そうたん)にまなぶ。宗旦四天王のひとり。明暦元年三河(愛知県)吉田藩主小笠原家の茶頭(さどう)となり,吉田に移住。元禄(げんろく)10年職を辞し,江戸本所で宗徧流をひらいた。宝永5年4月2日死去。82歳。京都出身。別号に四方庵,力囲斎。著作に「茶道便蒙(べんもう)抄」など。
山田宗徧(2) やまだ-そうへん
1908-1987 昭和時代の茶道家。
明治41年3月2日生まれ。山田宗有の長男。宗徧流10代家元。高千穂製紙取締役をつとめていたが,昭和19年宗徧流明道会を結成して会長となる。54年名を宗囲から流祖の宗徧にあらためた。昭和62年1月22日死去。78歳。大阪出身。東京帝大卒。名は長守。別号に不審庵,申抱子。著作に「茶を語る」など。
山田宗徧(3) やまだ-そうへん
1966- 昭和後期-平成時代の茶道家。
昭和41年3月8日生まれ。宗徧流10代山田宗徧(宗囲)の子。昭和62年南禅寺で得度,平成2年11代家元をつぐ。神奈川県出身。上智大卒。本名は長光。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の山田宗徧の言及
【宗徧流】より
…山田宗徧(1627‐1708)を流祖とする茶道の流儀の一つ。山田宗徧は東本願寺の末寺である,京都二本松の長徳寺明覚の子として生まれ,周学と称していた。…
※「山田宗徧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」