宝幢寺跡(読み)ほうどうじあと

日本歴史地名大系 「宝幢寺跡」の解説

宝幢寺跡
ほうどうじあと

[現在地名]山形市東原町二丁目

江戸時代の城下地蔵じぞう町にあった真言宗寺院。現在は庭園がもみじ公園となり、旧書院の清風せいふう荘などがある。天平三年(七三一)行基が滝平たきのひらに草創したと伝える。その後退転していたが、最上兼頼が延文二年(一三五七)山城醍醐寺より道助を招請、寺を山形に移して摩訶迦羅山宝珠院宝幢寺と号し、祈願所とした。天正年間(一五七三―九二)最上義光天童城攻略に際して当寺の法力が効あり、義光より道助以来の寺領三〇〇石に天童の仏向ぶつこう寺領一千七〇石が加えられたといい、最上義光分限帳(色川文書)に寺領一千三七〇石と載る。

宝幢寺跡
ほうどうじあと

[現在地名]神辺町下御領

下御領の法童寺しもごりようのほうどうじにあった。「水野記」は「愛宕山華幔院宝幢寺、寛永十六年住僧舜教、寛治二年建之、本尊釈迦、鎮守艮明神」とし、古来寺領三五貫であったが杉原盛重が一〇貫を寄進したと記し、永禄三年(一五六〇)八月一九日付の御領村のうち一〇貫を寺領とするという盛重の寄進状を載せる。

「福山志料」は「法道寺」とし、「山伏アリ水野家ノ時ヨリ今ニ至リ例年六月朔ハシメテ其年ノ新米ヲ献ス、由緒書ニ後深草院ノ御宇三条右大臣藤原法道ト云人宝治二年ニ開基セルニテ愛宕山華蔓院法道寺ト号ス、貞享中ノ火災ニ伝来什物類等悉ク焼失シ、杉原ノ墨付ワツカニ残レリト云、(中略)今按ニ後深草ノ御時公卿遠国ニ寺観ヲタツル事イフカシ、此二村ヲ御領ト云ニテオモヘハ、或ハ三条家ノ庄園領地ナリシヤ、或ハ長講堂領ナトノ如キ処諸国ニ散在シテ御字ヲハ加ヘシヤ、法道或ハ宝幢・法幢ニツクル」と記す。

宝幢寺跡
ほうどうじあと

[現在地名]丸亀市郡家町 地頭

おお池・かみ池・しも池からなる宝幢寺池のうち、最大の下池にある。永禄元年(一五五八)戦火で焼失した寺の跡地にその後溜池が築かれた(金倉寺古記録)。池の発掘調査により白鳳―奈良時代前期の四重弧文軒平瓦・複弁蓮華文軒丸瓦などを出土しており、律令制下の郡寺として白鳳後期―奈良前期頃創建されたと考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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